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AudiophileのためのLPガイド

ステレオサウンド176号(2010年9月発行)

ボベスコとヌヴー

金子 学

一昨年から、私もお手伝いさせていただいている、東京都練馬区主催の「五味康祐氏のオーディオ装置で聴く名盤レコードコンサート」も早いもので、今回(5月2日)で6回目を数えた。詳細については、http://www.neribun.or.jp/zaidan/index.htmlをご覧ください。)

今回は、五味氏が生前こよなく愛したという、二人の女流ヴァイオリニスト、ジャネット・ヌヴーとローラ・ボベスコの名盤を会場にいらした皆様と一緒に楽しんだ。

 まずは、ローラ・ボベスコ(1921~2003)。
彼女は、ベルギー出身のヴァイオリニストである。
キャリアも非常に長く、特に晩年は日本で人気も高かったことから、わが国でも演奏回数も多い。
彼女の演奏は、別に技術的に非常に優れているとか、天才的なひらめきを感じさせる演奏を聴かせるというタイプではない。その代わりに、端正な音楽の中に、凛とした表情を聴かせるスタイルは、数多くのファンの心をつかんだことも事実である。

私たちはまず、彼女が1960年代に残したヘンデルのソナタの録音に、優雅で手入れがあらゆるところにまでいきとどいた、「日本庭園」を思わせるような美を見る(聴く)ことができ、彼女の芸術を堪能した。

次に聴いたのが、彼女が晩年日本で録音した、ドビュッシーのソナタである。
残念ながら、技術的には、年齢を感じさせ、ちょっと苦しいところも散見されたが、やはり、上品な表情が私たちの心を落ち着かせてくれた。

彼女の演奏は、いつ聴いても、聴く者の心をほぐして、そして癒してくれる。ボベスコのようなスタイルは、どこにでもありそうであるが、実はなかなか見つけることができない。

それと、まったく違った世界を私たちに開いてくれるのが、次に聴いた、ジャネット・ヌブー(1919~1949)の演奏である。

彼女はわずか30歳にして、将来を期待されながら、航空機事故によりこの世を去ってしまった(1949年10月27日)、伝説的なヴァイオリニストである。(彼女の急な訃報に、先輩のヴァイオリスト、ジャック・ティボーは「自分も最期はかくありたい」と言ったそうだが、そのとおり彼も航空機事故で亡くなってしまった。・・・それも、同じエール・フランスの同じ機種で。・・・は非常に有名な話である。)

まず、私たちは、さきほどボベスコの演奏で楽しんだドビュシーのヴァイオリンソナタをふたたびヌヴーの演奏で聴くことにした(1948年録音)。

鋭角的な彼女の演奏は、先ほどのボベスコとは実に対照的で、まるで別の曲ような印象を受ける。特に、メロディーの出だしの、「キリッ」とした表情は、特に印象深い。

彼女の濃厚なメロディーの歌いまわし、表情の変化そして、雄弁な音楽、それらは何時聴いても聴くものを魅了する。
それらの魅力の多くは、右手のボウイング(運弓法・・・弓をどのように動かすか)によるものが多く、いかに彼女の場合、それが天才的だったかと、友人のヴァイオリニストが教えてくれたのを思い出した。

次に私たちは、ヴァイオリン小品を2曲楽しんだ。(「スペイン舞曲」と「ホラ・スタッカート」1946年録音。)

どちらもすばらしい!

当時の録音技術でさえも、彼女の音色の魅力や、表情の微妙な変化を見事にとらえており、五味氏のオートグラフは、またそれを雄弁に語ってくれる。(余談になるが、私は、ヌヴーの残された録音では、演奏時間の長い協奏曲よりも、2から3分の小品により多くの魅力を感じる。先の友人も、同じ意見だ。その理由をあれこれ考えてみたが、ひとつは、当時の録音技術にあるのではないか、と思いはじめた。当時は、レコードといえば、もちろんSP盤で、片面あたりの収録時間も約5分以内と非常に限られていた。そのため、これ以上の長い曲の場合、一面分をそれぞれ分けて録音するという、「こま切れ」録音を余儀なくされていた。ヌヴーのような、集中力を大切にする演奏家の場合、この録音方法は非常に大きなハンデになるのかも知れない。)

最後に、私たちはヌヴーの死後、それも、30年以上たった1980年頃に発見され、有名になった、ブラームスの協奏曲(ライヴ放送録音)のフィナーレを楽しんだ。彼女の残した録音の中でも、ヌヴーの個性や情熱を最もよくとらえた、そして、最も優れた演奏のひとつであると私は思う。

たぶん、五味氏はこの演奏をお聴きになっていらっしゃらないと思う。
もし、お聴きになっておられたら、どんな感想をもたれ、どんな文章をお書きになっておられたかと、私は五味氏に尋ねてみたい。という一言で、この会を締めくくらさせていただいた。

ステレオサウンド175号(2010年6月発行)

続LP鑑定法(?)その2

金子 学

(前号より続く)

ドイツ・グラモフォン(DG)

ヨーロッパ、いやクラシックレコードを代表する名門レーベル、ドイツ・グラモフォン(DG)のレーベルおよびジャケット変遷もかなり複雑だ。

DGのセンターレーベルのデザインは大別して大きくニつに分けられる。チューリップ・レーベル(写真1)とブルーライン・レーベル(写真2)だ。

チューリップ・レーベルは、センターレーベルの外周部が白と青のチューリップ(百合と呼ぶ人もいる)で囲まれたもの、ブルーライン・レーベルとは、チューリップの代わりに青の二重線が印刷されたものである。
チューリップ・レーベルのステレオLPはさらに二つのグループに分けられる。一番古いのは、レーベル外周のチューリップの内側の「著作権に関する注意」がALLE HERSTELLERから始まる文章になっている(写真3)。もう少し後の盤では、そこがMADE IN GERMANYから始まっている(写真4)。

ジャケットを見てみると、チューリップ・レーベルの古い盤(ALLE・・・)のほとんどは、ジャケット表面上部のDG独特の黄色い部分(額縁)の下部の「STEREO」の部分が赤く塗りつぶされている。これを、マニアは「赤ステレオ」(海外でも、「レッド・ステレオ」)と呼んでいる(写真5・実は、これより古いジャケットには、「STEREO」の文字が糸の様な細い文字でかかれていたり、「STEREO」と注意を促すような、ステッカーが貼られたものもある)。

また、DECCAと同じように、1960年代の中ごろまでは、ジャケット裏の右下の部分にジャケットの印刷年月が小さく印刷されている。

 

英EMI(HMV)

蓄音機のラッパに耳を傾け、熱心に(?)音楽鑑賞をしている名犬「ニッパー」君で有名なEMI(HMV)にも、多くのセンターレーベルのヴァリエーションが存在する。

最も初期のレーベルは、白地に円形のラベルで蓄音機とニッパー君をあしらい、その下にスピンドル孔を横切る「STEREOPHONIC」の文字があり、金色で縁取りがされているデザインである。これを、私たちは、「ホワイト&ゴールド・ニッパー」と呼ぶ(写真6)。レコード番号で言えば、ASDの251から275あたりのLPはこのレーベルが、オリジナルである。

これ以降は、基本的には、赤の地に上半分の半円の中に蓄音機とニッパー君の絵が入り、半円の上部は「HIS MASTER’S VOICE」のロゴが印刷されたデザインになる。これを、「半円(セミサークル)ニッパー」と呼ぶ(写真7)。番号では、ASDの576あたりから2470までは、オリジナルであると考えられている。

前回にご紹介した、DECCAやColumbiaも名演・名録音のオンパレードであったが、HMVもそれに勝るとも劣らない名盤がカタログを埋め尽くしている。中でも、シューリヒトのブルックナー、ケンペ・バルビローリの一連の録音、そして、以前このコーナーでもとりあげたデュ・プレの名盤は、オーディオファイル・音楽ファンの憧れの的である。

特にASD429のモーツァルトとバッハのヴァイオリ協奏曲集(ジョコンダ・デ・ヴィートのヴァイオリン、ラファエル・クーベリックの指揮)はもしかしたら、クラシック音楽のすべてのLPの中でも、もっとも入手の難しいLPのひとつかもしれない。(実際、私は、このLPについては、いまだかつて見たことも、聴いたこともないのだ。)

これ以降は、スタンプ(切手)ニッパーと呼ばれるレーベルデザインになる。これは、セミサークル・レーベルのニッパー君の部分が、四角い縁取りで囲まれ、ちょうど切手(スタンプ)のように見えるためである(写真8)。これにも、二つのヴァリエーションがある。ニッパー君の絵が、カラーかモノクロかの違いである。番号で見ると、ASD2470あたりから2750あたりまではカラー・ニッパーがオリジナルで、これ以降はモノクロのニッパーが初版ということになるらしい。

この、ASDシリーズの半円ニッパーとスタンプ(カラー、モノクロ両方とも)・ニッパーのLPは盤自体のクオリティがとても高く、ばらつきも少なく、優秀なプレス技術といえる。

これ以降も、EMIはレーベルデザインを少しずつ変更することになるが、今回は、割愛させていただく。

ステレオサウンド174号(2010年3月発行)

続LP鑑定法(その1)

金子 学

「これって、オリジナル盤ですか?」
と、よくお客様からご質問をいただく。
確かに、「オリジナル盤」という言葉は、麻薬のようなもので、多くのコレクターやオーディオファイルのあこがれだ。

6年ほどまえ、この欄で私は、オリジナル盤の見分け方を、「LP鑑定法」としてしたためた。しかし、その後、新たに分かったことや誤りが結構多くあった。そこで、今回はその原稿を基にしながら、新たな鑑定法をちょっとだけだが、ご披露したい。
 

オリジナル盤の定義

オリジナル盤の定義は様々ある。今回触れるレーベルのパターン、盤自体の形態(フラット盤か否かなど)、詳細まで行くと、ジャケット隅の(イギリス盤やドイツ盤にたまにある)ジャケットの印刷年月まできりがない。そして、その定義についての、メーカーからの情報もほとんどないのが実状だ。(以前、あるメーカーに、オリジナル盤について問い合わせたことがあった。しかしながら、メーカー曰く、「そんなに細かいことはわからない。第一そんなこと調べてどうするの?」と一喝されたことがあったことを、書き添えておきたい。)

そこで、今回は、私が内外の文献から、これだけは、押さえたほうが良いと考えた、レーベルのパターンからのオリジナル盤の見分け方を述べたい。
 

英DECCA

HIFIレコードの名盤が多い、イギリス・デッカのセンターレーベルのデザインは年代別に4つのグループに分けることができる。
それぞれを、オーディオファイルはED1、ED2,ED3、ED4と呼んでいる。また、それら中でも、ED1からED3までを「ラージ・レーベル」(またはワイド・バンド・写真ED1)、ED4を「スモール・レーベル」(写真ED4)と大別している。

ラージ・レーベルは、読んでその字のごとく、スモール・レーベルよりもセンターレーベルの大きさがひとまわり大きい。また、レーベル中にデザインされている銀色の帯(黒色で「FULL FREQUENCY」と書かれている)の幅が13ミリメートルあり、ED4よりかなり広い。そのため、「ワイド・バンド」とも呼ばれている。

それですめば、話は簡単であるが、そうはいかない。実は、「ラージ・レーベル」だけでも、少なくとも、3種のヴァリエーションが存在する。

もっとも古いタイプが「ED1」と呼ばれるタイプだ。ラージ・レーベルの外周から約1センチのところに溝(GROOVE)があり、レーベル外周の時計でいうと10時のあたりに「ORGINAL RECORDING BY DECCA」と印刷されている。(写真ED11)このレーベルが、デッカのステレオレコードの中でも、もっともプレスの時期が早く、オーディオファイルたちの憧れの的である。続くED2はレーベルデザインについてはED1とほとんど同じであるが、10時の位置が「MADE IN ENGLAND」となっている。(写真ED22)

ED3はED2におけるセンターレーベル外周部の溝のないものだ。
DECCAのステレオLPでは、ED1または2が存在するレコードは
SXL 2000番台すべて
SXL 6001~6368まで    だそうで、ED3は、
SXL 6369~6448までに存在する。

それ以降の番号はED4がオリジナルである。(ただし、SXL 6435と6447はED4がオリジナルである)

また、ジャケット裏の解説文が青い輪郭で囲まれたものを時折見かける。これは、「ブルー・ボーダー・ジャケット」と呼ばれ、DECCAの最初期だけのもので、とても珍しい。
さらに、初期のジャケット裏の右下には、ジャケットの印刷時期(月/年)が印刷されているものもある。

 

英コロムビア

コロムビア(Columbia)社のレコードで、最もオーディオファイルに人気があるのは、オットー・クレンペラーやアンドレ・クリュイタンス、ダヴィッド・オイストラフそしてレオニード・コーガンなどの名録音で非常に有名な、SAX(サックス)シリーズであろう。特に、スカイブルーの地にシルバーで文字が印刷され、格子模様が全体に入り、ラベルの全周を広い帯で囲んでいる「ブルー&シルバーレーベル(写真COLBS)」は名盤のオンパレードである。(番号で言うとSAX2526、2532をのぞくSAX2252から2539までのレコードではこのレーベルデザインがオリジナルである。)

SAX2252と2532、そして2540以降のオリジナルレーベルデザインは、「ハーフ・ムーン(あるいはセミサークル)」と呼ばれるものである(写真COLHM)。このデザインは、次号で述べるEMI(HMV)のレイアウトに似ているが、レーベルのどこかに「Columbia」の文字が入っているため、簡単に見分けが付く。

このレーベルの音質上の特色は、デッカの鮮烈なサウンドに比べ、聴く者を包み込むような、音場感豊かな上品なサウンドといってよいだろう。

ステレオサウンド173号(2009年12月発行)

カラヤンの名盤(その3)

金子 学

先日、縁あってベルリン・フィル(BPO)の主席コンサート・マスターの一人である、レオン・シュピーラー氏と歓談する機会を持てた。非常に楽しく、また有意義なひと時あった。

彼は、すでに80歳を超えているのであるが、非常に元気に、また鮮明な記憶力でBPO時代のことを語ってくれた。

しかし、カラヤンとの録音やコンサートの個別の話になると、「ちょっと、数が多すぎて、わからないことも多い。」と白旗を上げてしまう場面も何回かあった。それほど、カラヤンとBPOのコンサートや録音は数が多いのである。(ちなみに、彼は1963年にBPO入団である。)

 

数多くのBPOとのレコーディング

カラヤンがBPOの「終身」音楽監督に就任したのが1955年、フルトヴェングラーの死の翌年である。(このカラヤン就任の経緯に関しては、以前にも書いたので省略する。)

その彼が、SP時代にいくつかの録音をしたことのある、ドイツ・グラモフォン(DGG)に復帰して、記念すべき第一回目のステレオレコーディングを行ったのが、1959年3月のことである。録音場所は、フルトヴェングラー時代からのBPO専用のレコーディングスタジオというべき、ベルリン中心街から地下鉄で20分ほどのダーレム地区にある、「イエス・キリスト」教会であった。(この教会は、いまでも、ベルリンのオーケストラなどの録音会場としても数多く利用されている。)

この教会には、筆者は、なんどか訪れたことがある。
オーケストラの録音としては、現在は廃墟となった、ウィーンのゾフィーエン・ザールが非常に優れた音響特性で有名であるが、ベルリンのそれも負けず劣らず素晴らしいと私は考える。

イエス・キリスト教会の容積自体は、ウィーンのそれに比べては若干小さめで、残響はやや少なめではあるが、まとまりがよく、くせのない音質は、DGGのトーンポリシーにあっていて、カラヤンも気にいっていた。その証拠に、カラヤンは、「自分の」ホールといってもよい、フィルハーモニー・ホールが完成してからも、十年以上も、レコーディングには、已然として、この教会を使用していたのである。
 

カラヤンのDGG録音

いま、手元にあるカラヤンのディスコグラフィを見ながら、1959年以来のDGGへのカラヤンの録音タイトル数を数えたのであるが、200を超えたところで断念してしまった。驚くべき数字である。しかも、レパートリーも広い。古くはヴィヴァルディから、カラヤン時代の現代音楽であるオルフまで、また作品のジャンルでは、交響曲・オペラから、ほとんどのメジャー指揮者たちは目もくれない、ポピュラー名曲(たとえば、「スッぺの序曲集」など)まで、多岐多様にわたっているのである。

しかしながら、何といっても、それらの多くの録音レパートリーの中心は、交響曲であるといっても過言ではない。
ベートーヴェンやブラームスの交響曲全集やチャイコフスキーの後期交響曲(第5~6番)においては、DGG録音だけでも各三回(それ以前の録音や、ほかのレーベルのものまで入れると、それ以だ!)あるから凄い。しかも、それらが、おのおの今でも存在価値を充分に兼ね備えているのだ。

たとえば、DGGへのベートーヴェン全集について考えてみたい。
第一回目の録音は、1961年から約一年弱の間に録音された。BPOのシェフに就任してから、7年目の録音である。
これは、イエス・キリスト教会で録音されている。これを聴くと、フルトヴェングラー時代のいわゆる、「古き良き時代」のBPOサウンドとカラヤンの(当時としては非常に)斬新な感覚の融合がまことに素晴らしい!分厚くて、こくのあるBPOのサウンドを見事に生かしながら、ちょっと早めに弾く低音楽器(特にコントラバス)のスピード感にまいってしまうのは、私だけはないと思う。

第二回目の録音は、1975年から77にかけて行われた。会場も、彼らのホームグラウンドである、「フィルハーモニー」でのレコーディングである。

この録音のころ、カラヤンは「いま、私とBPOは最高の状態にある!」とよく言っていたという。そのことばどおりのハイクオリティの演奏である。まず、各ソロ奏者たちの独奏がまことに素晴らしいのである。初めに登場してくれたシュピーラー氏は、BPO演奏のDVDを見ながら、「このフルート、美しいだろ!そうだ、このティンパも素晴らしいだろ!」と何度もうっとりしながら私に話してくれた。その彼の感動が、このころのLPにはしっかりと刻まれているのだ。

それだけではなく、もちろん、気力体力十分のカラヤンのオーケストラ・ドライヴ力も凄い。(しかながら、カラヤンは、「オーケストラは”ドライヴ”するものではなくて、”キャリー”するものだ。」と良くいっていたそうである。)

ここから聞こえてくる音楽は、ある一つのオーケストラ演奏の模範ともいっても良いのではないか。

そして、最後の三回目の録音だ。(1982~84年録音)
残念ながら、このころのカラヤンの体力はかなり弱っていて、ご存じのように音楽を離れたところでのBPOとの関係は、かなりひびが入っていた。

しかし演奏は、前二回との録音とは、また違った意味で、聞くものに感動を与え続ける名演となった。
彼の指揮からは、「音楽を演出する」という感が全く抜けてきて、音楽に没入し、その姿を彼自身が楽しむ、という姿が彼の演奏から見え隠れするのである。

たとえば、初期の交響曲(第1&2番)では、音楽にたわむれるような演奏スタイルから、自然にクライマックスに進んでいく曲線の姿には、何回聞いても私は参ってしまう。

以上、DGGへのベートーヴェンの交響曲だけについて簡単にかいつまんでお話ししただけでも、今回の紙面は尽きてしまった。

私は、出張で年に何回かヨーロッパを訪れるが、原則的には、年一回はザルツグルグ近郊にある小さな町、アニフにあるカラヤンの墓を訪れるようにしている。

彼が、私の心にも残してくれた、数多くのコンサートとオペラでの感動、そして、(私が一生聞いても聴ききれないかもしれない!)おびただしい数のレコーディングのお礼をするために。

(ベーレンプラッテ店主)

ステレオサウンド172号(2009年9月発行)

カラヤンの名盤(その2)

金子 学

1959年、この年カラヤンは、その長い録音歴の中でも、特別な年を送ることになる。

なぜなら、この年から、彼のレコーディング上でのキャリアでも特に重要な、DECCAとDGGへの録音を開始したからである。

今日は、まずDECCAレコーディングへ、思いをはせてみたい。

 

DECCAへ登場!

この年の3月9日と10日、カラヤンはウィーンのゾフィーエン・ザールで、ウィーンフィルとベートーヴェンの交響曲第7番を録音する。これが、短いながらもカラヤンの録音歴のひとつのピークともいえる、DEECAレーベル時代の初録音となる。

カラヤンのDEECAレーベルでの最終録音は、(例外はあるが)1965年の3月である。このたった6年間に残した、20にも満たない録音(オペラをいくつか含む)は、現在でもある意味で、録音芸術としての「世界遺産」といっても良いと思うのは、私だけではないはずだ。

当時のDECCA録音チームのプロデューサーは、天才ジョン・カルーショウ。彼と彼のチームの創りだすサウンドは、非常に印象的である。

実際に演奏会場で聞く音響よりも、さらに「生々しい」サウンドなのである。

それは、ゾフィーエンザールのすばらしい音響と、カルーショウと彼のスタッフの優れた技術、そして見事なカラヤンとウィーンフィルの演奏のたまのものである。

先日、友人からこんなことを言われ、はっとした。
「この前、念願のウィーンフィルの生のコンサートを聴きましたが、私の耳には、その日の演奏よりも、我が家で聞くDECCAのLPのウィーンフィルが、迫力があるように聞こえますが、どう思われますか?」
「うーん!」である。

ウィーンフィルのホームグランドである楽友協会ホール(ムジークフェライン)よりも室容積があり、またステージが大きなゾフィーエン・ザールは、録音スタジオとしては、大きな可能性を秘めている。

低音の響きが豊かで、ステージが大きいため、(楽友協会よりも)各楽器の配置方法やマイクアレンジに、プロディーサーやエンジニアは思いを形に(音に)しやすいのだ。
そのため、カルーショウは思う存分、彼の才能を発揮できたわけである。
彼らが、このホールでとらえた、カラヤン&ウィーンフィルのサウンドは、この上なく美しく、しなやかでダイナミックだ。

もちろん、この響きは、実際のコンサートで聞くウィーンフィルのそれとは、趣を異にしている。しかし、この天才指揮者とプロヂューサーの残した仕事は、いまでも音楽ファン、オーディオファイルの心をつかんでいるのだ。私が、これらのLPを、「文化遺産」と呼ぶ理由はここにある。

話は、ちょっ横道にそれるが、残念ながら、ゾフィーエンザールは10年ほど前におきた火災のため、いまも廃墟のままである。なんとかして、再建はならないものか。

 

新しい「定番的レパートリー」

さらに、これらの優れた技術により、文字通り「日の目をみた」レパートリーがいくつかある。

まず一つ目は、ホルストの「惑星(1961年録音)」である。
この年、カラヤンはウィーン国立歌劇場の芸監督の職にあった。

ウィーンをはじめ、各地の歌劇場では、バレエも上演される。その公演のひとつに、カラヤン自身が指揮棒を取り、バレエの伴奏として、バレエ音楽ではない「惑星」を取り上げた。(一般的に、バレエ公演では、スタークラスの指揮者は、指揮をすることはあまりない。したがって、カラヤンが「惑星」を、しかも、バレエの伴奏で指揮することは、非常にレアケケースなのである。) カラヤンは、また、それと時をほとんど同じくして、「惑星」をDECCAに録音した。をこれは、彼の長い指揮者としてのキャリアのなかでも、特別なことであった。その公演と録音の関係は、今では知る由もないが、彼は、よほどこのイギリス音楽に愛着を持っていたに違いない。

ここで、面白い事実がある。
カラヤンは、「惑星」を二回録音している、ウィーンフィルとのこの演奏と、この録音からちょうど20年後のベルリンフィルとの再録音である。

しかしながら、さっきお話したバレエ公演のほかには、「惑星」がコンサート会場で演奏された、という事実を、今のところ私は知らない。

これは、ちょっと興味深い話である。
実は、カラヤンには、コンサートとレコーディングのレパ-トリーにおいて、若干のずれがある。具体的には、レコーディングがありながら、コンサートで取り上げなかったり、その逆のはなしが結構あるのである。
「惑星」のほかには、「蝶々婦人」が有名だ。彼は、マリア・カラス(スカラ座)とミレッラ・フレーニ(ウィーンフィル、これはDECCA録音)とこの名曲名演のLPを2枚生み出しているが、実際にオペラハウスでて取り上げた、という話をまだ知らない。(ご存知の方は、いらっしゃいませんか?)

また、その反対に、「タンホイザー」や「エレクトラ」などは、オペラハウスで何回も名演を繰り広げているが、LP用録音は一切ない。

カラヤンのDECCA録音を機として、ポピュラー名曲になった例としては、ほかには、R.シュトラウスの「ツァラツストラはこう語った」がある。これらの功績には、もちろん、録音チームの「いい仕事」のバックアップがあってこそではあるが、それまでの録音レパートリーとしては「埋もれた名曲」を掘り起こす嗅覚にはただただ驚嘆するばかりである。

まだまだ、お話したいことがいっぱいあるが、紙面の関係でこれぐらいにおく、もし、カラヤンやウィーンフィル、いやクラシック音楽に少しでも興味がおありなら、これらの録音にぜひ耳を傾けていただきたい。(まずは、CDでもかまわない。)

音楽ソフトを創る、という行為がいかにすばらしいか、ということがきっとおわかりになるはずである。 (続く)

(ベーレンプラッテ店主)

ステレオサウンド170号(2009年3月発行)

ベーレンプラッテのシステム

金子 学

今回は、当店のPRを少し。

当店は、クラシック輸入中古LPの通信販売専門店である。
しかしながら、インターネットショップも展開しているとは言え、一年に約100日間も店を閉じて、なぜせっせと海外に出かけてLPを買い付けて来るのだろうか?

答えは、非常にシンプル。
「お客様に、優秀な音質・クリーンなコンディションのLPを、リーズナブルな価格で楽しんでいただくため」に他ならない。

私は、国内でLPの下取りや、書類だけで海外からLPを仕入れるということは、まずない。理由はふたつある。

ヨーロッパでアメリカや日本向けにプレスされたLPには、明らかにヨーロッパで使用されるためにプレスされた同じものより、音質が劣っているものがあること。もうひとつは、直接、海外のディーラーやコレクターの顔を見ながらLPを入手したほうが、内容的にも優れたものを、リーズナブルな価格で入手できると私は思っているからなのだ。

 

レコードショップにて

今、私は、ベルリンに滞在中である。
ここにある、レコードショップには、最低で丸三、四日間は通いつめる。

はじめの二日間で、ここにあるすべの在庫を見せてもらう。私は、このショップには年間5回は訪れるのであるが、来る度に数千枚のLPが追加されている。これは、ここ数年同じペースだ。だが、店の主は、
「別の倉庫には、まだ未整理のLPがたくさんあるから大丈夫。さらに、毎日のようにドイツ各地から、レコードがやってくる。心配なのは、これら全部の整理が終わるまで、私が生きていられるか?ということさ!」と冗談か本気かわからないことをいつも私に言っている。

この二日の間に、ジャケットを見て、定評のある名盤、優秀録音盤そのほか、お客様にぜひ聞いていただきたいLPを選び出す。

さて、翌日からが大変だ!

二日間で選んだLPのコンディションのチェックだ。一枚一枚ジャケットから取り出し、照明や日光にかざしたりして、傷や大きな反りのないことを確かめる。

これが、非常に苦労を強いられる作業だ。実は、これ、コレクター時代は、楽しくて仕方がなかった。なぜなら、自分が個人的なコレクションに加えたいLPだけを見ればよかったので、そんなに多くはなかったのであるが、今では、少なくとも一日に二千枚は見ている。夕方にもなると、目がかすんでくる!

もちろん、目視だけではわからない場合は、店主に頼んで、試聴をして、ノイズが出ないことを確認することもある。

私は、いわゆる「箱買い」(レコードをセレクトせず、”ひとやまいくら!”的な買い方)はしない。一枚一枚のLPについて、詳しく調べ、それらについて、そのショップの店主と語らうことによって、店主との信頼関係を築きたいからだ。それによって、次回私に見せてくれるLPのグレードもさらによくなってくる。

選び抜いたLPは、翌日にはもう、日本に向けて送られる。私は、日本に本社がある宅配会社の支社がある都市では、そこを、無い場合は、郵便小包を利用する。日本にオフィスがある宅配会社の方が、あらゆる点で動きが早いからだ。(以前、ドイツの郵便局から、二つの小包を「普通便」と「速達」で出したら、「普通便」のほうがはるかに早く着いた・・・なんて、笑い話にもならないことが何度かあった。)

 

日本では

さて、無事に日本に到着したLPであるが、すぐに、当店の「通販リスト」やホームページに掲載されるわけではない。いまいちど、私がチェックをする。
なぜなら、結構、現地のチェックだけではミスや落ちが多いからなのだ。

まず、ジャケットと盤の状態をチェックする。この時には、ほぼ3割のLPは自宅のシステムで試聴をする。この作業が楽しくもあり、非常に手間もかかる。(事実私は、日本にいるときには、毎日8~10時間近くLPを聴き続けることもある。)

このとき、俄然威力を発揮するのは、キースモンク社のレコードクリーニングマシンである。
現在では、この種のLP洗浄機は数社から発売されているが、本機は、その元祖ともいえるもので、私の所有するモデルは、もう三十年以上も昔に製造されたものである。(昨年、オーバーホールをお願いして、見違えるようになった。)

写真は、約50枚のLPを洗浄した後の、廃液である。
ごらんのように、かなり濁っていて、沈澱物さえ見える。実は、この洗浄液、使用前は無色透明であったのだ。これを見ても、LPの表面には、如何に多くのごみや不純物が付着しているかがわかる。また、不思議なことに、新品のLPでも、このマシンで洗浄すると、洗浄前とで比較すると、明らかに再生音がクリアーに、芳醇になってくるのがわかる。これからも、アナログオーディオの深さが垣間見れる。(お客さまにLPをお送りする前には、「未開封」のLPをのぞき、すべてのLPをこのマシーンで洗浄をしている。)

ここで、振り返ってみると、私は、最低三回(買い付け時、到着時、出荷時)、LPのコンディションをチェックする。もちろん、海外のLPショップにおいても、何回かはチェックしているはずであるから、ヨーロッパで前オーナーの手を離れた貴重なLPは、次なる日本のオーディオファイルの手に届くまで、実に何重ものチェックを受けることになる。

この甲斐もあってか、お客様からは、当店のLPのコンディションについては、かなりの高評価をいただいている。しかしながら、LPレコードの宿命で、再生システムによっては、私のシステムでは聞こえなかったノイズの発生や、再生音の不良等の事故が起きることがまれにではあるが、ある。その際には、クレーム内容の如何にかかわらず、商品到着後7日以内であれば、返送料等はすべて当店の負担で、代替品や返金等の対応をさせていただいているので、ご安心の上、お気軽にお買い物を楽しんでいただければと思う。

ステレオサウンド169号(2008年12月発行)

カラヤンの生涯(その4) 「カラヤンとウィーン」

金子 学

今年は、アニバーサリー・イヤーとあって、カラヤンのおびただしい数の録音がまとまってボックスセットのCDの形となって発売された。

その中でも、私は、1950~60年代にDECCAに録音されたウィーンフィルとの演奏をまとめた9枚組のCDを何回も楽しんだ。

オーディオ的にも、LPで聴こえていたはずの音がCDでは聞こえてこなかったり、また、その逆があったりして、はっとしたり、がっかりしたりの連続で、とても興味深かった。

今回のお話は、これが録音されたころのカラヤンとウィーンのことである。

 

ウィーン国立歌劇場監督就任

第二次世界大戦で瓦礫の山と化したウィーン国立歌劇場が再建されるまでには、10年の時間が必要だった。
1955年、新装なったオペラ座は、カール・ベーム指揮の「フィデリオ」で新しい歴史を刻み始めた。戦後初代の音楽監督には、ベームが就任した。カラヤンは、オープニング公演のうちいくつかの指揮を依頼されたが、断っている。

そんなカラヤンに、チャンスが降って湧いてきた。
ベームが、ウィーンの仕事と同等の扱いで、(敵国だった)アメリカのメトロポリタン・オペラの指揮の依頼を受けたため、ウィーン市民の反感を買い、1年足らずでウィーンを去ってしまったのだ。
カラヤンには想像以上に早く、ウィーンのオペラのシェフの座がやってきたことになる。

彼は、ウィーンのオペラを改革するために、いくつかの画期的な試みを行った。
まずは、オペラの「原語上演」である。

この頃、オペラはどこでも、上演される母国語での公演が常識であった。
ウィーンでは当時、「カルメン」や「椿姫」であっても、ドイツ語で公演が行われていた。
カラヤンは、これらのオペラをそれぞれ、フランス語、イタリア語で上演することにしたのだ。

そのため、彼が指揮するオペラは、作品が本来持っている響きの美しさを取り戻した。しかしながら、合唱団員をはじめとするスタッフたちには、非常に多くの困難がのしかかってきたわけである。
また、彼は、音楽だけでなく、舞台のすべてに最上の効果を求めようとしたため、とくに照明のリハーサルには、多くの時間を費やしたという。

合唱団や舞台スタッフは、主役級の歌手たちとは違い、劇場での労働者である。かれらは、カラヤンには、最大限の尊敬を抱いていたため、決して彼には文句を言わなかったが、劇場スタッフのあまりにも多くの時間外労働と劣悪な待遇のため、労使の関係は、最悪なものとなっていた。
このため、彼の在任中には、ウィーンの最大の行事ある、「国立歌劇場舞踏会」が中止になりかけたときがあったが、カラヤンが連れてきた、有能な「副監督」の取り計らいで、これらの困難を乗り切ってきた。

しかし、この一触即発の「小康状態」もそれほど長続きはしなかった。三人目の「副監督」である、したたか者の、エゴン・ヒルベルトのためである。

 

「ラ・ボエーム」事件

それは、プッチーニの「ラ・ボエーム」の公演初日に起こった事件だ。
カラヤンが、プロンプターにミラノ・スカラ座のスタッフを起用したからである。

プロンプターは、基本的には、その劇場の技術スタッフが務める。そのため、劇場職員の労働組合は激怒し、とうとう、オーストリア大統領列席の公演初日、開演50秒前にストライキを決行してしまったのだ。

満員の聴衆と大統領の前で、緞帳の前に立ち、聴衆を鎮めさせた芸術監督カラヤンの隣で、(あらかじめストライキを知っていたかのごとく)手際よく声明文を読み上げるヒルベルトを見て彼は、どう思ったのだろう?

「ラ・ボエーム」は後日、ウィーンのプロンプターで上演されたが、これをきっかけに、カラヤンとヒルベルトの仲は、次第に悪化し、ついに1964年はじめには、二人は決別してしまう。

皮肉にも、カラヤンは、自分が連れてきた副監督に裏切られる結果になったしまった。

ヒルベルトは、ついにカラヤンおろしにかかった。彼が指揮をしたがった「タンホイザー」の指揮者に彼に、無断でほかの指揮者をあてがったりした。

そんなヒルベルトの態度に業を煮やしたカラヤンは、ついに、国立歌劇場に辞表をたたきつけた。

彼は、「相打ち」をもくろんでいたのだろう。しかし、ヒルベルトの政府に対する裏工作のため、オペラ座を去ったのは、カラヤンだけであった。

このようにして、カラヤンは、芸術的側面では、圧倒的な支持を得ながら、ウィーン国立歌劇場から追われるように去っていったのである。1964年6月のことである。

 

カラヤンとウィーン

しかし、この事件の後であっても、カラヤンは、ウィーンと疎遠になったわけではない。ウィーンフィルの指揮台には定期的に登っているし、ザルツブブルグ音楽祭では、毎年ウィーンのオペラのスタッフとオペラの上演を行っている。

むしろ、この後の方が彼とウィーンの結びつきは濃くなったのか知れない。

事実、1978年から、たった数回ではあるが、ウィーン国立歌劇場を指揮したときには、劇場はじまって以来といわれる圧倒的なフィーバーが起ったことや、ベルリンフィルといざこざがあったときには、ウィーンフィルは、ベルリンフィルの「代役」オーケストラの役を喜んで買って出たことなどは、彼のファンのかたであればご記憶にあるにちがいない。

1989年4月、ウィーンフィルとのコンサート翌日、彼はベルンフィルに辞表をたたきつけ、その中で、「今後はウィーンフィルとのみ仕事をする」と言った。(事実、ウィーン国立歌劇場への復帰公演の日程や、ウィーンフィルとの日本公演も決まっていた。)

しかし、それもかなわず、7月16日にザルツブルグ音楽祭でのオペラ公演のリハーサルの休憩中、あっけなくこの世を去ってしまう。

カラヤンは、ザルツブルグの実家のほか、何箇所かに家を持っていた、もちろんウィーンにもそれはあった。しかし、ついにベルリンには家を持たず、ホテル住まいであった。

これは、覚えておいてもよいことだろう。

ステレオサウンド168号(2008年9月発行)

カラヤンの生涯(その3) 「ザルツブルグ復活祭音楽祭」

金子 学

カラヤン、そしてモーツァルトの街、ザルツブルグは「祝祭都市」と呼ばれることがある。
それほど多くのフェスティバルが、この街には満ち溢れているからだ。

クラシック音楽関連だけでも、世界一規模が大きく、世界一有名な、夏の「ザルツブルグ音楽祭」のほか、モーツァルトの誕生日(1月27日)の前後に行われる、「ザルツブルグ・モーツァルト週間」期間中も多くの音楽愛好家でにぎわうことになる。

今回は、カラヤンが1967年に創設し、今でも、音楽ファン達の注目を集めている、ザルツブルグ第三の音楽祭、「ザルツブルグ復活祭音楽祭」について考えることによって、カラヤンの芸術に対する情熱、姿勢について思いをめぐらしてみたい。

 

「復活祭音楽祭」とは

ザルツブルグ復活祭音楽祭(以下イースター音楽祭)の開催期間は、10日間と、夏の音楽祭(約40日間)のそれと比べると、かなり短い。1回のオペラ公演とオーケストラコンサート3回からなる4夜のチクルスが、2回繰り返されるだけである。しかしながら、音楽ファンの注目をあびるのは、なぜだろうか?

それは、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団がすべての公演に出演するからにほかならない。とくに、ベルリンフィルが、オペラ上演において、オーケストラピットに入るのは、原則的に、1年にこの2日間だけである。
したがって、入場料が非常に高価であるにもかかわらず、ヨーロッパをはじめ、多くの音楽愛好家たちが世界中から集まるのも、無理のないことだろう。

 

そのルーツ

カラヤンは、素人集団同然の地方のオペラハウスからキャリアを築きあげ、最後には、ウィーンの国立歌劇場の芸術監督にまで上り詰めた、日本的に言えば、「たたき上げ」の職人であった。(彼自身は、自分の肩書きを「指揮者」ではなく、「楽長」と言っていた。このほうが、彼の言葉を借りると「職人的」な意味合いがより強いらしい。「指揮者」は、ただの権力者にすぎないとのことだ。)

彼の生涯を通じての理想は、ただひとつ、自分の頭の中にだけある、「最高レヴェルの上演」を行うことであった。しかし、その実現は、既存のオペラハウスでは、先ず、絶対不可能なことであった。

たとえば、ウィーンの国立歌劇場。ここでは、年約300回、オペラやバレエが上演される。もちろん、芸術監督であるカラヤンが指揮するときには、多くの時間をリハーサルや、準備のための打ち合わせに充当することができるが、毎日の多くの観光客のための日常公演のためには、それは、所詮、無理な相談である。(彼が、ウィーン国立歌劇場を去った理由のひとつに、この志の高さがあったことは、想像に難くない。)
 

数多くの壁

彼は、理想の音楽祭については、昔から、あれこれと悩んだらしい。
解決しなければいけない問題は、山ほどあったからだ。

先ずは、開催地の問題。

たった、10日間の公演のために、彼が満足するリハーサルの時間を十分に取れるホールは、彼が希望するところでは、ひとつもなかった。1960年代に新装なった、ジュネーブ歌劇場からのオファーもあったらしいが、最終的には、カラヤンの故郷であり、そして、何よりも、彼のイデーが十分生かされた、ザルツブルグの祝祭劇場に決定したことは、自然の成り行きだ。

次は、開催時期、そして演奏するオーケストラの問題である。

夏の音楽祭の時期は、彼の手兵である、ベルリン、ウィーンフィルともに忙しい。ベルリンフィルは、休暇期間でもあるし、また、何人かのメンバーは、バイロイト音楽祭のためのオーケストラの主要メンバーをもう何十年間も務めていたのであった。

さて、最終的に決まった、ヨーロッパでは、夏に次ぐ休暇期間のイースター(復活祭)休暇期間中は、ウィーンの国立歌劇場においては、ワーグナーの「パルシファル」を上演するのが、伝統となっており、ウィーンフィル(実質的には、ウィーン国立歌劇場管弦楽団)のメンバーは、この「公務」のため、ザルツブルグに遠路はるばるやって来ることは、所詮無理な相談であった。

そのため、彼は、オペラハウスでの上演をも務める、ほかのオーケストラとも交渉をしたとも伝えられるが、最終的には、当時、文字通り「彼の」オーケストラ、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を彼の故郷に呼ぶことにした。

しかしながら、それでも、まだ問題が多い。

ベルリンフィルハーモニーは文字通り、「コンサート・オーケストラ」としては、世界最高ではあるが、オーケストラピットのなかでは、一度も経験が無い。さらに一流の歌手をそろえ、彼の芸術上の理想を彼らに叩き込むには、非常に多くの時間と予算を必要としたからだ。
 

レコーディングの活用

そのために、彼は、やっと一般に普及し始めた「LP」を利用することを思いついた。

まず、公演の一年前に、リハーサルを兼ね、翌年に上演するオペラをレコーディングする。この録音のために、彼とオーケストラ、歌手たちは、入念なリハーサルを行うこととなる。

そして、この録音のデモテープが完成すると、それが、各出演者に配られるのだ。これを、何回も聞くことを義務づけることによって、出演者たちが、復活祭前にザルツブルグに到着する頃には、彼らの頭の中には、カラヤンの解釈が浸透していることになり、リハーサルの時間が短縮されることとなる。

また、このLPも音楽祭直後に世界中に発売され、録音収入は、莫大なものとなる。さらに、イースター音楽祭のチケット購入者には、このオペラのLPが一般発売に先立ってプレゼントされる。(それも、「カラヤンのサイン入り」で!)チケット購入者の特典はさらにあり、音楽祭期間中に行われる、カラヤン自身の解説付の、ベルリンフィルの公開リハーサルまでついているという、日ごろの彼の行動からは、考えられないサーヴィスぶりだった。

私は、音楽祭上演のために録音されたLP(ほとんどが、ワーグナーのオペラ)を聞くたびに、この時代のカラヤンとベルリンフィルが、ザルツブルグの春の夜に起こした「奇跡」の瞬間にタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥ってしまう。(続く)

写真:実際に音楽祭の維持会員に配られた、LPのジャケットとサイン入りの解説書

ステレオサウンド167号(2008年6月発行)

カラヤンの生涯(その2)

金子 学

「夜中に私を起こして、“ばらの騎士”のオックス男爵の台詞をどこか、途中から言ってみたまえ。ただちに、私はその続きを歌ってみせる!」と80歳を越えたカラヤンは言った。
このことばこそ、若き日のカラヤンの苦労を物語る証拠といえよう。

 

ウルムでのスタート

1929年1月、カラヤンは、ザルツブルグで自費でのコンサートを指揮した。その客席には、ウルム歌劇場の支配人がいたらしい。(多分、彼自身が招待したのだろう。)

終演後すぐに、カラヤンと支配人の間で交渉がもたれた。支配人は、試験的にウルム歌劇場でオペラの指揮をし、もし、うまくいったなら、第二楽長にすることを提案した。

しかし、カラヤンは、こう言って、その提案を暗に断った。

「それは、意味ありません。もし、上演準備の稽古をする機会を与えてくださるのなら、すぐに(ウルムへ)行きます。一週間して、お気に召されないのであれ ば、そうおっしゃってください。私は何も言わずに出て行きます。ただ、私は、自分の指揮する作品の稽古も、自分でしたいのです」。

実のところ、カラヤンは、こうとしか言えなかったのである。というのは、実際には彼に、これまでにオペラの指揮をした経験がなかったからだ。

しかし、なんという大胆な発言であろう!

1929年3月2日、彼はウルムで、文字通りの周到な準備の後、モーツァルトの「フィガロの結婚」を指揮し、同時に「楽長」の地位を手に入れた。

この後も、彼は、どんなに名門オペラやオーケストラからお誘いがあっても、十分な準備の時間が取れない場合は、その誘いをことごとく断っている。これこそ、彼の「成功の方程式」と言ってよいだろう。

 

試練の日々

カラヤンは、はれて、このウルム歌劇場で、オットー・シュールマンという人物とともに、「共同楽長」として、指揮者としてのキャリアをスタートさせた。

しかし、その日々は、決してそんなに楽なものではなかった。しかしながら、その苦労は、後に大きな実を結ぶことなる。

彼は、ありとあらゆるエネルギーを劇場につぎ込み、ソロ歌手や合唱の稽古の時間に、劇場つきの歌手や合唱団とともに、レパートリーに上った作品を熱心に勉強した。いや、勉強しなければいけなかったのだ。

若き「楽長」は、昼も夜も劇場で過ごした。彼は、彼にあてがわれたオペラの指揮だけでなく、シュールマンと仲良くオペラハウスでの仕事をなんでも分担し た。互いに助け合い、同僚に代わって合唱団の指揮を引き受け、その上、オーケストラの「務め」をはたした。その「務め」とは、ちょっと今では信じられない ことなのだ。
というのは、ウルム州立歌劇場のオーケストラには、たった23名のメンバーしかいなかった。そのため、メンバーだけで、ひとつのスコアを演奏することがで きなかったのである。したがって、欠けているパートの音は、ピアノに向かって、誰かが弾かなければならない。その役目を、どちらかの「楽長」が買って出な ければ、公演は成立しなかったのだ。

 

ふたつのオーケストラ

「カラヤンはウルムでは、ふたつのオーケストラを頭の中で同時に指揮した」といわれている。ひとつめとは、当然、その時カラヤンが前にしているオーケスト ラである。そして、もうひとつのオーケストラとは、まだ、彼の手には入っていない、想像上のオーケストラでそれが、どんな音を出すかを心で聞いていたとい うのだ。

こうして、彼は自分の音楽を、現実のオーケストラと想像力によって深めていった。特に、R.シュトラウスやワーグナーなどの大編成オーケストラを必要とす るオペラの一部のパートをピアノで務めた経験あるもののほうが、現在ようにCDで全曲に親しみ、作品を身につけ、オーケストラの前に立つ若い指揮者より も、作品をより深く知っているのは当たり前の話である。

しかし、後日、世界中のあらゆる一流歌劇場の頂点に立ったカラヤンが、ウルムではワーグナーの「トリスタン」をピアノで弾いて間に合わせていたというのは、非常に興味深い話である。

カラヤン自身によると、ウルムで過ごした6年間の間に、かの地では40ものオペラが上演されたという。ドイツの小都市のオペラハウスとしてはかなりの数である。

カラヤンは、また、ひとつのオペラにさくことのできる準備時間は、長くとも三週間と言っていた。そして、この三週間の間に、軽い内容のオペレッタならまだしも、「タンホイザー」のようなヘビー級の作品のための準備を済まさなければいけなかった。

さらに、当時の大変な状況を示す、彼の思い出がある。

「ばらの騎士」の歌唱指導の初日のことである。

自分は、楽譜が全く読めないので、自分のパートを繰り返しピアノで弾いてもらって、教え込んではもらわなくてはならないと申し出た歌手がいた。なんとそれ が、オックス男爵役の歌手だったのだ。オックスの歌う箇所は、「ばらの騎士」では、パート譜だけでも、100ページ以上はある。カラヤンは、この譜面が読 めない歌手とともに、「オックス男爵」の役を学んだことになる。そのため、カラヤンの頭のなかには、オックスのパートが完全に永久に刻みこまれたのであ る。実際に、カラヤンが歌詞の一節一節を暗記しているオペラは、数多くあった。

記録によれば、ウルムでの1935年までの6シーズンに、カラヤンは25の新演出のオペラを指揮した。そして、残りの時間は、一緒に楽長の役目を果たした シュールマンのために、オーケストラの一員としてピアノに向かい、また、あるときは、楽譜が読めない歌手のために(文字通りの)歌唱指導までした。

カラヤンは、後年、若い指揮者たちに「田舎で(仕事)を始めるとことをこころから望む」、と言っている。

ウルム時代の、決して無駄にならなかった苦労を思えば、このことばの意味を誰もが正しく理解するに違いない。 (続く)

ステレオサウンド166号(2008年3月発行)

カラヤンの生涯(その1)

金子 学

ヘルベルト・フォン・カラヤンは、1908年4月5日、当時のオーストリア・ハンガリー帝国のザルツブルグ州の首都ザルツブルグで、医者であり、熱心な音楽家であった人物を父として生まれた。

カラヤンの一生は、幾度とない、故郷の町への凱旋、そして、ウィーン、ベルリンをはじめとする大都市での成功と挫折の繰り返しの末、最後は、ザルツブルグ 郊外のアニフという田舎町に居をかまえ、自分の遺産(録音・録画ほか)を集積し、この世を去った、と要約することができる。

 

帝王誕生の頃

ザルツブルグは、現在では、モーツァルトの街、そして世界遺産として多くの観光客でいつもごったがえしているが、カラヤン誕生当時のこの街は、帝国の州首都の中では、「最も眠気を催す町」に過ぎなかったらしい。

もちろん、モーツァルトゆかりの遺跡は、その頃からあったが、人々が訪れることは、ほとんど稀であった。たとえば、この町を訪れる人であれば必ずと言ってもよいほど行く、モーツァルト像でさえも、当時の人々の関心を集めたのは、「除幕式」の日だけだったようだ。

 

カラヤン家のルーツ

先日、ウィーン人の友人とカラヤンについて語り合っていて、「カラヤンは、生粋のオーストア人ではない。それは、名前を見ればわかるだろう!」と言われたことがあった。

ヘルベルト・フォン・カラヤン家は、ヨハンネス・カラヨアンネスという男にさかのぼることができる。今では、詳しいことは不明であるが、彼は商人で、1764年にギリシャ領マケドニアのコザニで死去した。

ヨハンネスには、二人の子供がいた。ゲオルグ・フォンとテオドルである。二人とも、商人として成功したが、テオドルの子供は一人も結婚せず、子供も残さなかった。一方、ゲオルグ・ヨハン・フォン・カラヤンはウィーンで三世代以降も続いていった。

ゲオルグの子である、1810年生まれのテオドル・フォン・カラヤンは、学者で、大蔵省で働き、やがて宮廷図書館に移った。彼には、音楽とのつながりが あったことがわかっている。ハイドンの手紙を所有していたし、ハイドンについての論文も書いていた。その後のカラヤン家は、医者が二代続く。

カラヤンの祖父、ルードヴィッヒ・アントン・フォン・カラヤンは、ニーダー・エストライヒ州の衛生担当官となり、すばらしいまとめ役として評価が高かっ た。彼は、芸術の中で最も音楽を愛し、ウィーン古典派のハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、そしてワーグナーをこよなく愛したらしい。

ルードヴィッヒの息子の一人エルンストは俳優か、音楽家になりたかったが、やはり、医学を志した。彼は、ザルツブルグに流れ着き、医部長となり、最終的には、ザルツブルグ州立病院の院長となった。彼が、ヘルベルト・フォン・カラヤンの父である。

 

音楽との出会い

幼少時代のカラヤンは、決して金満家ではなかったが、豊かな環境のもとに育った。母親は、物静かで、良く気の利く人間と称えられ、父親は、医者としては、 州立病院のために熱心に仕事をこなす一方、州立劇場とモーツァルテウム管弦楽団の楽員としても活動した。また、カラヤン家に集まってくる町の音楽家のため のホームコンサートでも、ホスト役を務めた。

そんななかで、自然とカラヤンは、音楽に目覚めていったのである。

まず、カラヤンの兄ヴォルフガングがピアノのレッスンを受けるようになると、二つ年下のヘルベルトもせっつくようにして、このレッスンに加えてもらったよ うだ。そして、兄に遅れをとることががまんできなくて、ピアノのレッスンには、特別まじめに取り組んだと、カラヤン自身晩年に語っている。

彼は、早くも、9歳に満たない1917年1月にモーツァルテウムの式典でピアノを弾く。そのときのようすを、多くの伝記では、あたかも「神童」のように描 いているが、残念ながら、当時の資料には、そのような記録はない。彼がピアノを習ったモーツァルテウムの教授の思い出からも、(もちろん)彼には音楽的才 能は十分あったが、ピアニスト(音楽家)としての大いなる成功などは想像もつかなかったようだ。(彼の伝記にある、「神童」カラヤン像は、もしかしたら、 彼が世界的名声を得てから出来上がったものかもしれない。)

 

学生時代

ギムナジウム(ヨーロッパの中・高校)を卒業すると、カラヤン兄弟は、ウィーンで工学の勉強を始めた。兄のヴォルフガングは、後にこの世界で成功を収め、精密光学器械の研究所を設立したが、音楽は趣味の領域にとどめた。

一方、ヘルベルトは、工学については、死ぬまで興味を持ち続けたが、実際にウィーン工科大学で学んだのは、たった2ヵ月間だけである。それも、家族を安心させるためという目的ためのために。

1927年の秋にようやく、父から、音楽だけを学ぶことを許されて、彼は、ウィーン音楽院でピアノを勉強し始める。しかし、「腱鞘炎」のため、ピアニストであり、彼の師である、ヨーゼフ・ホフマンと徹底的に話し合った結果、指揮者になることを決めたのであった。

当時の音楽院の楽長は、日本では作曲家として有名な、フランツ・シュミットであった。彼は、教育家としては、非常に有名であったが、指揮課の責任者は、ア レクサンダー・ヴンデラーであった。ヴンデラーは、かつてのウィーンフィルのチェロ奏者で、指揮者としては、名声を得ることはなかったが、オーケストラの 団員として豊富な経験を持っていた。そのため、カラヤンは彼の下で、オーケストラの扱いに関する知識の多くを学んだに違いない。(カラヤンは、大学時代に どんな風に勉強をしたかはあまり語らなかった。そんな意味では、小澤征爾をはじめとする弟子たちには「教師」というより「助言者」であった。)

1928年12月、カラヤンは、音楽院の勉強を終了した。卒業コンサートでは、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲を指揮した。教授たちが、ほとんど卒 業試験とみなしているリハーサルでは、彼は与えられた時間を、作品をオーケストラに通して演奏させることに使わず、すぐに細部にこだわり、特にトランペッ トのファンファーレでは、各奏者をひとりずつ吹かせ、テンポに注意させた。それは、楽員、ならびに教授たちの注目を集めた。このとき、シュミット学長は、 立ち上がって、「今、もう、指揮者カラヤンのすべてがわかった!」と言明したそうだ。

その翌年の1月21日、彼は、モーツァルテウムで自費のデビュー・コンサートを開いた。プログラムは、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番そして、チャイ コフスキーの交響曲第5番ほかであった。(このコンサートは、今年1月5日、カラヤンの生誕100年を記念して、ザルツブルグで再現された。) (続く)

ステレオサウンド165号(2007年12月発行)

最後の演奏会 バックハウスとリパッティ

金子 学

自由業である音楽家は、基本的には、「定年」はない。死ぬまで演奏活動を行うことができる。

しかし、声楽家や管・弦楽器奏者などの、肉体を楽器とする人々はおのずから、ある程度の年齢となると「引退」のときがやってくる。けれど、引退はしても、 その後の人生を長く送った演奏家は数多い。たとえば、昨年亡くなった、シュワルツコップは、引退後20年以上も、各地で講演会等を開いていた。

一方、指揮者やピアニストはその性格上、文字通り、「死ぬまで」演奏活動を続けた人が多い。

今日は、バックハウスとリパッティが残した、彼らの生涯「最後の演奏会」のLPを久しぶりに聴いてみた。

 

ケルンテンの夏・バックハウス

「鍵盤の獅子」ウィルヘルム・バックハウス(1884~1969)は、数少ないベートーヴェンの直系の弟子に当たる。彼のベートーヴェン解釈は、最もベー トーヴェンに近いとされ、彼のレパートリーの中でも、中心的な位置を占める。彼がDECCAに残した、ベートーヴェンのピアノ協奏曲とピアノソナタの全曲 録音は、現在でも、クラシックファン、ピアニストにとって模範的な演奏とされ、聞き継がれている。

そんな彼の、「最後の演奏会」は1969年の6月28日にやってきた。彼は、現在の「ケルンテンの夏音楽祭」(オーストリア)の前身となるオシアッハの修 道院教会(シュティフト・キルヘ)の再建記念コンサートに迎えられた。ここで、彼は、6月26日と28日にリサイタルを開いたのであった。

6月26日の一回目のコンサートは、無事終了した。悲劇は、二日目の28日に訪れることになる。

彼は、得意のベートーヴェンのピアノソナタ第18番の第3楽章を演奏中に、心臓発作を起こしてしまうのである。彼は、「少し、休ませてください!」と言い 残して、第四楽章を弾くことなく、ステージからそのまま、控え室に戻ることになる。医師団は、「これ以上、演奏を続けてはならない!」と忠告したが、それ を退け、残りのプログラムを変更し、何とかコンサートを弾き終えたが、そのまま病院に担ぎ込まれた。その七日後に、彼は、この世を去ってしまった。

この二日間の演奏会は、DECCAの手により録音されている(アルバム・タイトルは“Sein Letztes Konzert”「最後の演奏会」)。

このLPには、彼自身の「少し、休ませてください!」の肉声も入っており、ドキュメントとしても貴重なものである。

演奏は、技術的な傷は少々見受けられるが、バックハウスの晩年の、青空を思い起こさせる澄み切った境地と生命感を味わうことができる、すばらしい録音である(なぜか、このLPは、日本とドイツのみで、DECCAの本拠地イギリスではリリースされていない)。

 

「ブザンソン告別演奏会」・リパッティ

前項のバックハウスは、コンサート最中に、「まもなく自分は死ぬのではないか?」とは考えていなかったに違いない。しかし、ディヌ・リパッティ(1917~1950)の場合は別だ。

20代にしてわずらった、「悪性リンパ腫」は次第に、そして確実に彼を蝕み、33歳の1950年頃には、すでに、末期症状に達していた。

この年の9月、彼は、フランス領、スイス国境近くのブザンソンでの国際フェスティバルのリサイタルに招かれた。

9月16日、コンサート当日、リパッティは、午前中にホールに到着し、リハーサルを行った。このときの、体調はまずまずだったという。しかしながら、午後 になって、体調は悪化し、熱が出始めた。妻のマドレーヌや、医師団、この日のために駆けつけた、師であるナディア・プーランジェも、とても演奏できる状態 ではない、と演奏会のキャンセルを勧めた。

しかし、彼は、演奏することが、ミューズの神へ献身の証であり、彼の演奏を聴くために集まった人々ために、ピアノを弾くことが自分の使命だと繰り返し、周 囲の説得を拒んだ。多分、このときの彼の心の中には、このコンサートが自分の生涯最後のコンサートである、ということが、はっきりとわかっていたに違いな い。

ついに、リパッティは、医師や妻らの説得を振り切り、注射を打ち、ゆっくりと着替え、待っていた車にそろそろと歩いていった。ホールに到着すると、楽屋ま での階段を一段一段、息を切らしながら上ったという。のちに、妻のマドレーヌは、その光景を、キリストが十字架を背負って登った「ゴルゴタの坂道」にたと えた。

この日のプログラムは、バッハの「パルティータ第1番」・モーツァルトのソナタ第8番・シューベルトの即興曲・そして、ショパンのワルツ(全14曲)と彼のレパートリー中でも、中核をなすものばかりである。

舞台中央によろめくように歩み寄り、ピアノの椅子に座ったリパッティは、軽く、指慣らしのアルペジオをちょっと弾いてみる。ちょっとした間のあと、すぐに バッハを弾き始めた。非常に美しい音ではあるが、元気な頃の録音と比べると、弱々しさを感じさせたが、コンサートが進むにつれ、次第に、いつもの溌剌さを 取り戻してきた。
コンサートの前半には、バッハ・モーツァルト・そして、シューベルトが演奏されたが、曲の間には、ディヌは楽屋に戻らなかった。いや、戻る体力が、なかったのだ。

後半は、ショパンのワルツ集が演奏されたが、残念ながら、このときの彼には、全14曲を弾き通す力が残されていなかった。1曲を残して、楽屋に戻った彼 は、すっかり憔悴しきっていたが、いまいちど、彼はステージに立ち、アンコールとして、バッハの「主よ、人の望みの喜びを」を弾いた。これが、彼の最後の 演奏となった。

この演奏会を、ラジオ局は、中継放送する予定であったが、コンサートの中止を予想して、とりやめにした。しかし、幸いにも、録音は行われた。これが、 EMIによりレコード化された、有名な「リパッティ・ブザンソン告別演奏会」のLPである。残念ながら、最後のバッハは録音がされなかったらしく、LPに は未収録である。

悲しいかな、このLPに収められた演奏は、彼の元気な頃の演奏と比較すると、技術的な見地からは若干聴き劣りがする。しかし、演奏全体からは、以前の演奏 からはあまり聴けなかった、ある種のすがすがしさが感じられる。これこそ、彼が、最後の最後にミューズの神から得ることができた、「完成された境地」なの かもしれない。

リパッティは、このコンサートから3カ月足らずの12月2日に33歳の短い生涯を終えた。臨終の間際、彼は、ベートーヴェンの弦楽四重奏を聞きながら、こう語った。

「良い演奏家になるだけでは、決して充分ではない。神様から選ばれた“楽器”にならなくてはいけないのだ!」

(ベーレンプラッテ 店主)

ステレオサウンド164号(2007年9月発行)

続・日本で最も有名なオーケストラ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(下)

金子 学

フルトヴェングラーとチェリビダッケ

1947年5月、フルトヴェングラーは、ベルリン・フィル(BPh)に帰ってきた。この歴史的出来事は、戦後の混乱に苦しむベルリンの聴衆にとっては、こ れ以上ないプレゼントであったが、フルトヴェングラー、チェリビダッケそして、BPh当局にとっては、今から見ると決して幸福な出来事とはいえない。

その理由はいくつか考えられるが、大きく分けると2つ挙げられる。

ひとつにはBPhにふたりの主席指揮者が存在するようになったことである。
もちろん、チェリビダッケは、フルトヴェングラーを敬愛していた。だから、彼に反抗的な態度を取るつもりはこれっぽっちもなかった。しかし、通信手段が今 と比べれば、未熟な当時のこと、楽団内の決め事、たとえばシーズン中のプログラムや客演指揮者の人選などでは、忙しい二人の指揮者が膝をつき合わせて話し 合うことなどなかなかできなかった。そのため、お互いの心の中に誤解が(はじめは小さかったが)生じ、それが、フルトヴェングラーにとっては、しだいに彼 への猜疑心に変わっていったようだ。

もうひとつは、チェリビダッケのリーダーとしての資質の問題である。
BPhの戦後の混乱期の窮地を救ったチェリビダッケであったが、次第に、彼はBPhの事務局や楽団員からはけむたがられてしまう。それは、彼の音楽的資質というより、人間性によるところが大きい。

もちろん、指揮者たるもの、100人もの個性的な芸術家に対してリーダーシップをとらなくてはならないのであるから、多少の強引さは、あるときは必要だ。しかし、その強引さは、ある意味では、異常、とさえ思えるところがある。

たとえば、リハーサル、その厳しさは、常識を超えていたらしい。そして、それについていけない楽団員がいると、すぐに、彼らの入れ替えをBPhに要求する のだ。とくに、年配の楽団員に対しては、容赦ない態度に出たそうだ。それが、楽団員の中に、「反チェリビダッケ」派を生んでしまうひとつの大きな要因と なってしまった。なにしろ、楽団員と彼らの家族には、生活がかかっているのだ。「チェリビダッケには人事権を与えてはいけない」とさえ言い出すものもい た。

1952年、フルトヴェングラーは、1934年に「ヒンデミット事件」で抗議の辞任をして以来、実に18年ぶりにBPhの音楽監督就任の契約を交わした。 その際に、彼は、チェリビダッケに、「今後は、BPhやドイツ音楽界への発言は慎重に!」と手紙で忠告した。この手紙は、チェリビダッケには、それまで、 師と仰いでいたフルトヴェングラーからの、いわば、「絶縁状」に見えたらしい。

1954年11月、チェリビダッケは、BPhと最後のコンサートを指揮することになる。そのリハーサルで、チェリビダッケは、楽団員たちと修復不可能なほ どの大喧嘩をする。ある団員が、このコンサートの直前に指揮をしたカラヤンと比較して、「カラヤンはもっと効率的に練習をした」と、言ったのがきっかけ だった。

チェリビダッケは、この後、50年近くBPhを指揮することはなかった。1992年、本当に久しぶりにBPhを指揮した。が、コンサート後、彼は、つぶやいた。「昔はもっと良かった!」

 

フルトヴェングラーとカラヤン

各種メディアに取り上げられているように、フルトヴェングラーは、カラヤンを嫌って、ウィーンやザルツブルクでは、彼の登場を妨害し続けてきた。それを裏 返せば、フルトヴェングラーの妨害行動は、カラヤンのたぐいまれなる才能に対する、嫉妬以外のなにものでもなかったといえるだろう。

たとえば、1951年のバイロイト音楽祭の戦後再開公演での出来事が象徴的だろう。1944年以来中止されてきた、バイロイト音楽祭では、オープニング公 演の「第九」、「指輪」、「マイスタージンガー」そして「パルシファル」が上演されることになった。指揮者には、ワーグナーのオペラはカラヤンとクナッ パーツブッシュが内定し、フルトヴェングラーは「第九」だけとなった。これには、わけがある。フルトヴェングラーはあらゆる手を使い、ザルツブルク生まれ のカラヤンを、ザルツブルク音楽祭から締め出した。そのため、ザルツブルクでフルトヴェングラーは多くのオペラやコンサートの指揮に時間をかけなくてはな らなくなり、バイロイトでは、コンサートがやっと一回開ける程度しか、スケジュールを割くことができなくなったのだ。

そんな、自分が作り出した状況下でも、フルトヴェングラーは、「宿敵」カラヤンがメイン指揮者として登場するバイロイト音楽祭での指揮をはじめは拒んだという。

ヴィーラント・ワーグナー(リヒャルトの孫)はそれでも、フルトヴェングラーにこの記念すべき、「第九」を依頼した。フルトヴェングラーははじめ、それを 拒否した。カラヤンがメイン指揮者として登場する音楽祭で(たとえ、それが名誉になっても)、彼の前座のような扱いをされるのが、屈辱的に思われたに違い ない。

だが、ヴィーラントの「(戦後初の)音楽祭で最初に音を出すのは、あなたしかいない!」との言葉に、彼の心は動かされた。
「“カラヤン”のバイロイトに出るつもりはないが、“ワーグナー”のバイロイトなら出よう!」と言って、彼は契約書にサインした。
今となっては、信じられない話だが、ヴィーラントの説得がなければ、世紀の名盤、「バイロイトの第九」は、生まれてこなかったことになる。

ほかに有名な話として、「ウィーン交響楽団」の件が挙げられる。

フルトヴェングラーはあらゆる手を使って、カラヤンがウィーン・フィルの演奏会を指揮するチャンスをつぶしてきた。ウィーン・フィルから排除されたカラヤ ンは、ウィーン第二のオーケストラ、ウィーン交響楽団を指揮した。そのため、ウィーン交響楽団は、ウィーン・フィルに匹敵するほど注目を浴び、実力が格段 に向上した。カラヤンは、あえて、フルトヴェングラーがウィーン・フィルで取り上げた曲目を、その直後のウィーン交響楽団の演奏会で取り上げたりして、お 互いの競争心をあおったりもした。

しかし、フルトヴェングラーの死後、彼の後を継ぐことのできる指揮者は、カラヤンを置いて存在しないことを、BPhやベルリンの市民は知ることになる。

その後の、カラヤンとBPhのあゆみについては、カラヤン誕生100周年の来年までお待ちいただきたいと思う。

(ベーレンプラッテ 店主)

ステレオサウンド163号(2007年6月発行)

続・日本で最も有名なオーケストラ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(中)

金子 学

 

終戦時のBPhとフルトヴェングラー

1945年1月23日、フルトヴェングラーのベルリンでの戦中最後の演奏会がアドミラル・パラストで開かれた。プログラムは、モーツァルトの「魔笛」序 曲、交響曲第40番そして、ブラームスの交響曲第1番であった。交響曲第40番の途中で、停電のため演奏会はストップしてしまったが、一時間後には再開 し、ブラームスで終わった。

その翌朝、彼は、ヒトラー暗殺未遂事件への関与で、何時逮捕されても不思議ない状況であることを、友人から告げられる。ちょうど、ウィーンでのコンサート が予定されていたので、これを理由に、この日のコンサートが終わるとすぐ、夜行列車に乗り、プラハ経由でウィーンに向かった。ベルリンの友人・同僚、そし て、彼のオーケストラである、フィルハーモニーにもなにも告げずにベルリンを去ったのだ。

ウィーンに着いたのは、翌25日のことである。ちょうど、この日は彼の59歳の誕生日であった。彼は、ウィーンでちょっと転んで怪我をしたのを理由に、そ の後のベルリンでのコンサートをキャンセルして、スイスに渡り、いくつかのコンサートを指揮する。これらが、フルトヴェングラーの戦中の最後のコンサート となってしまった。

フルトヴェングラーがベルリンを去っても、BPhはコンサートを続行した。戦中最後のコンサートは、1945年4月16日に行われた。この二週間後にヒトラーは自殺し、第二次大戦は、終焉を告げるのだ。

 

戦後の混乱

ドイツの正式な終戦日は、1945年5月9日である。このわずか17日後には、BPhの戦後初のコンサートが、「ティタニア・パラスト」で行われた。指揮 者は、レオ・ボルヒャルトであった。彼は、反ナチの運動員としても有名で、終戦後すぐに、占領下のベルリンでBPhのメンバーを集め、コンサートの準備を した。

今年初め、私は、このティタニア・パラストに行ってみた。現在は、再びベルリンのどこにでもある映画館になったが、そこには、「ここで、戦後初のベルリン・フィルの演奏会が、ボルヒャルトのもとで行われた」という銘版が掲げられていた。(写真1・2)

しかし、悲劇が起こる。8月23日のことである。ボルヒャルトは米軍兵が誤って撃ったピストルのため不慮の死を遂げてしまう。

新たな音楽上のリーダーを急に失ったベルリンは、窮地に陥ってしまう。なぜなら、この時期のベルリンでは、ナチとの係わり合いのある音楽家は採用できな かったからだ。(事実、ある指揮者が、BPhの新指揮者の候補になったが、旧ナチ党員であることが判明したため。解雇された。)

 

チェリビダッケ登場!

ボルヒャルトの死後、急遽、新指揮者採用のためのオーディションが行われた。十数人が応募したが、そのほとんどが、天下のBPhの指揮者としては、レヴェ ルが低いものばかりであった。だが、例外がひとりだけいた。ルーマニア生まれの若手指揮者、セルジュ・チェリビダッケである。まだ、33歳の彼は、本格的 なオーケストラを指揮したことはなかったが、オーディションの審査員の心をしっかりと捉えたという。

この試験のわずか数日後の1945年8月29日、彼はBPhの指揮台にはじめて立った。このコンサートは大成功を収め、BPhは今後三カ月のコンサートの 指揮を彼に命じた。この三カ月間の新聞の批評は、賛否まちまちであったが、ベルリンの市民は、この若い指揮者を熱狂的に支持した。そして、1946年4 月、彼は、フルトヴェングラーが帰ってくるまでの、という条件付きながら、常任指揮者に任命されるのだ。

ここに、チェリビダッケとBPhの演奏会記録がある。彼は、1945年の夏から46年(8月まで)のシーズンに108回、次のシーズンには、なんと126 回のBPhコンサートを指揮している。この数字は、現在のBPhの1シーズンあたりの、全コンサート数を上回っている。このことからも、この当時の彼と BPhの信頼関係がいかに深かったかが想像できる。

残念ながら、この時代の両者の演奏を記録した、公式レコーディングは、ごくわずかな例外を除き存在しない。いくつかの放送録音の復刻でのみ、それを垣間見 ることができるだけである。それらを聞くと、晩年の彼の演奏からは想像できない、颯爽としたテンポのなかから、実にみずみずしい表情の、(当時としては) モダンなスタイルにびっくりとしてしまう。

 

フルトヴェングラーの復帰

一方、非ナチ化審理中のフルトヴェングラーに、無罪判決が言い渡されたのは、1946年12月のことであった。しかしながら、連合国がこれを認めたのは、 翌年の4月になってからだった。(それには、アメリカの音楽家たちの妨害があったとされる説があるが、真相はわからない。)

1946年4月、ローマで、フルトヴェングラーは戦後はじめて指揮をした。その後、すぐ、フルトヴェングラーのベルリン復帰コンサートが5月25日に行わ れると発表された。場所は、終戦時から彼らのホームグラウンドであった、ティタニア・パラストである。プログラムは、ベートーヴェンの、「エグモント」序 曲、交響曲第6番「田園」そして、第5番だった。チケットは奪い合いとなり。ダフ屋が横行し、観客のなかには、家財道具を処分してまで、チケットを入手し たものもいた。

これが有名な、「フルトヴェングラー復帰コンサート」である。このコンサートは、翌26日は同会場、27日は、連合軍の放送局のスタジオでも行われ、27 日はDGGによりLP化された。この演奏は、彼のすべてのLPの中でも、もっとも有名なもののひとつといってもよいだろう。(写真3) (続く)

(ベーレンプラッテ 店主)

ステレオサウンド162号(2007年3月発行)

続・日本で最も有名なオーケストラ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(上)

金子 学

かつて、小沢征爾は、
「ベルリン・フィルを一言で言えば?」という質問に、
「100人で音楽することも、1人で音楽することも大好きな人たちの集団!」と答えたという。
どんなときでも、常に演奏にベストを尽くしている彼らの姿を思い出すたびに、なるほどと思ってしまう。

 

生い立ち

ベルリン・フィル(以下BPh)の誕生日は、1882年5月1日である。(毎年この日には、BPh誕生を記念コンサートがヨーロッパ各地で、「ヨーロッ パ・コンサート」の名の下に開かれていることは有名である。)この日に、これまであった、ベンヤミン・ビルゼが監督を務める「ビルゼ・オーケストラ」から 脱退したメンバー54人が母体となり、6人のメンバーを加えて発足した、団員の平均年齢が30歳以下という若い人たちが中心となってオーケストラを結成し たのであった。

ほかのヨーロッパや、アメリカのオーケストラと比べて、BPhの歴史は意外にも浅いことがわかる。

最初の定期演奏会は、1882年10月23日にフランツ・ヴェルナーの指揮で行われた。プログラムは、シューマンの交響曲第2番ほかであったという。その 出発は、決して容易なものではなかったらしい。帝政時代に歌劇場や劇場には助成金が出たが、コンサート専門のオーケストラには出なかったのである。そのた め、何回か財政的な危機に見舞われたが、そのたびに、あらたな後援者が出現したおかげで、かろうじて救われたようだ。また、演奏会場も重大な問題であっ た。古くからの演奏会場は、この管弦楽団の設立のいきさつから使えず、古くはオペラハウスであったが、当時はローラースケート場として使われていたホール を演奏会場として改装して使用していた。しかし、このホールは、ことのほか音響が良く、すぐに、ベルリンの音楽生活の中心になった。(これが、旧フィル ハーモニーホールである。)1884年には、ブラームス、ドヴォルザークらが自作の作品の指揮も行っている。

 

名指揮者たちの出現

1887年に歴史的指揮者、ハンス・フォン・ビューローが初代常任指揮者になった。以後、BPhはその機能を高め、古典派や、リヒャルト・シュトラウスの 作品を含むロマン派の音楽を完全に自分のものにした。しかし、ビューロー時代は数年しか続かず、彼は1893年に指揮台を降り、翌年に亡くなる。その後、 リヒャルト・シュトラウスを中心に何人かの客演があったが、95年にアルゥール・二キシュが常任指揮者に選ばれ、それを皮切りに、彼は、以後BPhを多く 指揮するようになる。ニキシュのもとで、BPhは世界のトップクラスへ飛躍した。彼はまた、BPhの演奏旅行の指揮も行い、レパートリーも意欲的に増やし た。(また、彼は歴史上初めてのベートーヴェンの「運命」交響曲の録音も行っている。)

 

フルトヴェングラー登場

1922年ニキシュの死後9カ月を経て、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが新しい指揮者となった。音楽の知的で精神的な比類ない解釈 者である彼は、オーケストラにも聴衆にも深い音楽的体験をもたらし、BPhの黄金の1920年代を現出せしめ、その組み合わせは、音楽界において歴史的な できごとになった。

フルトヴェングラーは、ナチスの政策を芸術上の立場から非難した。(有名な「ヒンデミット事件」など。)また、ユダヤ人のメンデルスゾーンの作品を演奏会 で取り上げたり、ユダヤ人の演奏家への援助に尽力したりもした。また、BPhは第二次大戦中も、停電、空襲が頻発する中、演奏活動を続けた。空襲・停電の ため、演奏会が途中で中止となったこともあったという。この間の演奏会の多くは、ラジオ放送用に録音されていたので、現在でも聞くことができる。これらの 録音は、大戦後、ソ連のものになり、ソ連国内のみLPとして発売される。しかし、「鉄のカーテン」の時代である。それらのLPの存在は、西側の人々の目に は、なかなか留まることがなかった。あるとき、ソ連を旅行したイギリスのレコード店の店主が、これらのLPの存在を知るところとなり、これをきっかけに、 戦時中のフルトヴェングラーの録音が世界中の音楽ファンの注目を浴びるようになる。これらの録音で有名なものとしては、ベートーヴェンの「運命」「第七」 「第九」、シューベルトの「グレート」等がある。余談であるが、戦時中、放送局ではステレオ録音も行っていたらしいが、BPhの演奏は、今のところ確認さ れていない。

1944年1月には旧フィルハーモニーホールは爆撃で焼失してしまう。以後、ベルリン国立歌劇場やアドミラル・パラスト(パラストとは「映画館」を意味す る)と会場を移しながら演奏会を行う。フルトヴェングラーは1945年2月にスイスに亡命したが、BPhは、ベルリン陥落の2週間前まで、演奏活動を続け た。この事実だけでも、BPhがいかに当時のベルリン市民の心の支えとなっていたかがわかると思う。

フルトヴェングラーは、大戦中多くの音楽家たちがドイツを離れ亡命する中、あえてドイツに留まり、ドイツの人々のために演奏した。そのため、大戦終了後 は、「非ナチ化裁判」の対象となってしまう。実に皮肉な話である。その裁判終了までは指揮台に立てなくなってしまったのである。そのため、オーケストラ は、レオ・ボルヒャルトのもとで演奏活動を続ける。しかし、彼は、戦後まもなくの45年8月23日不慮の死を遂げてしまう。そのピンチを救ったのは、若い ルーマニア人指揮者の、セルジュ・チェリビダッケであった。彼は、フルトヴェングラーの穴を埋めるべく、精力的に演奏活動を行った。そのいくつかは、いま でも録音で垣間見ることができる。 (続く)

(ベーレンプラッテ 店主)

※写真 爆破された「旧フィルハーモニーの位置を示す記念碑

ステレオサウンド161号(2006年12月発行)

日本で最も有名なオーケストラ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

金子 学

音楽フリークである私の友人によれば、ウィーンフィルハモ-ニーと日本にとって、今年は記念すべき年だ、とのこと。すなわち、ウィーンフィルが1956年に初来日してからちょうど50年経った今年2006年は、メモリアルイヤーであるというのだ。

ウィーンフィルは初来日以来、日本で最も来日回数も多く、多くの日本人のファンをもつオーケストラであることは、疑う余地がない。これを機会に彼らについて調べてみた。

 

その歴史

1842年3月28日、現在のウィーンフィルは、最初のコンサートを開いた。オーケストラの固定メンバーがコンサートを開く、この、今では当然な形態が、当時にしては画期的な出来事であったことは、現在ではあまり知られていない。

「ウィーン古典派」つまり、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェンの時代には、プロの音楽家たちによるオーケストラコンサートはまだ存在しなかっ た。この頃の管弦楽コンサートといえば、そのために集められた、臨時アンサンブルが演奏するのが通常だったのだ。プロの演奏家集団によるオーケストラは、 当時においては劇場に所属する形でしか存在していなかった。

もちろん、このオーケストラがコンサートを開くというアイディアは、ウィーン古典派の時代から存在し、モーツァルトやベートーヴェンがウィーン宮廷歌劇場 のオーケストラを指揮した記録が残っている。(1824年には、ベートーヴェンが、宮廷歌劇場のオーケストラで「第九」を初演している。)そして、 1830年に宮廷歌劇場の楽長となったラッハナーは、試験的に劇場でのバレエ公演の幕間にベートーヴェンの交響曲を演奏したりしたが、まだ、段階的な試み であった。

しかし、現在のように、ウィーンで最高の音楽アンサンブル(宮廷歌劇場管弦楽団)が、自らクラシック音楽のコンサートの主催者になるまでには、もっと年月が必要だった。

1881年に作曲家(代表作に歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」がある)で指揮者のオットー・ニコライが、ケルントナー・トーア劇場(ウィーン宮廷歌劇 場)の楽長に任命された。彼は、ウィーンの音楽界に影響力のある人々に推されて、先ほどのラッハナーのアイディアを復活し、1842年3月28日ついに、 「大コンサート」を帝国王立宮廷歌劇場のオーケストラのメンバーで行った。このコンサートは、「フィルハーモニー・アカデミー」コンサートと呼ばれ、この コンサートをもって、ウィーンフィル誕生とされている。

そのとき、いまでも、そのままあてはまる、ウィーンフィルの理念が出来上がった。

・ウィーン国立歌劇場(宮廷歌劇場)の管弦楽団に所属している音楽家のみがウィーンフィルのメンバーとなれる。
・芸術上、組織上、財政上の自主的責任を負う。
・すべての決定が、メンバーの総会で民主的に行われる。
・実際の管理業務は、民主的に選出された12名の委員からなる委員会で実施される。

さて、このように、革命的で新しい理念のもとに、スタートしたウィーンフィルだったが、これはまだ始まりに過ぎず、この団体自体が実質的に安定するまでには、数多くの困難や苦い体験に出会うことになる。

 

ウィーンフィル定期演奏会

ニコライが、ウィーンを去ることになった。1847年のことである。それは、創設間もないウィーンフィルにとって、芸術上だけでなく、運営上のリーダーを 失うことを意味し、存続さえ危ぶまれるほどになった。その後の12年間の停滞期間を経て、ようやく新しいシステムを導入し、待望の転機がやってくることに なる。

1860年1月15日、ケルントナー・トーア劇場で、当時のオペラ座監督のカール・エッケルトのもと、初めて4回の定期演奏回が行われたのだ。それ以来、 「ウィーンフィル定期演奏会」は中断なく行われてきた。唯一のシステム上の変化は、シーズン毎の定期演奏会の指揮者選出制が、1933年から客演指揮者制 へと移行したことである。

1933年以前の定期コンサートの指揮者の中では、まず、ハンス・リヒターの名を挙げたい。彼は、バイロイトでワーグナーの「指輪」を初演した伝説的指揮者である。

彼の力により、ウィーンフィルは、世界的名声と無比の伝統を有するオーケストラとして成長することになる。リヒターの「黄金期」と呼ばれる時代に、ブラームスの第2&3交響曲や、ブルックナーの最大傑作のひとつ第8交響曲が初演されたのでる。

更なるハイライトは、トスカニーニとフルトヴェングラーの時代である。ウィーンフィルは、彼らと多くの名演を残している。

1933年からは、ウィーンフィルは世界中の著名な指揮者たちと共演している。第二次対戦以降のオーケストラの歴史にとって特に重要な意味を持った指揮者 としては、名誉指揮者のカール・ベーム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、そして名誉会員のレナード・バーンスタインが挙げられる。

ウィーンフィルは、現在では、レコーディング、映像の収録、世界中への演奏旅行そして音楽祭への参加など現在の「音楽産業」からの数多くの要求を完全にこなしている。

それでありながら、いまでも、自主管理で運営し、1860年以来の定期演奏会をその芸術上、組織上、および財政上のベースとしている。

幸いにも、私はウィーンフィル定期演奏会に何回か接することが出来た。そのときの、楽友協会内の雰囲気は、ほかのどのコンサートのときとも違ったものだった。しかし、その話をするには、もうスペースがなくなってしまった。残念!

(ベーレンプラッテ 店主)

ステレオサウンド160号(2006年9月発行)

ザルツブルグに死した二人の巨匠 その1 祝祭都市ザルツブルグ

金子 学

私がこの原稿を書いている8月は、ヨーロッパ各地では、各地で音楽祭が繰り広げられている。そして、その数たるや凄いもので、何百とも言われている。ま た、スタイルもさまざまで、世界各地からビックネームが参加する名門音楽祭から、地元の人々が中心となって作り上げる「地域密着型」まで多種多様である。

しかし、その規模や知名度という点では、「バイロイト音楽祭」と「ザルツブルグ音楽祭」が両横綱であることに異論を挟む人は少ないと思う。

実は、このふたつの音楽祭、大きな違いがある。

「バイロイト音楽祭」は、ワーグナーによる、ワーグナーのための音楽祭である。1876年にリヒャルト・ワーグナーによって創設されたこの私的音楽祭は、 (ごく一部の例外をも除き)彼の作品の上演ためにのみ開催される。したがって、音楽際自体のムードはちょっと閉鎖的で暗いイメージだ。ワグネリアン(ワー グナーの音楽の熱狂的愛好家)にとっては、まさに「聖地」で、彼らは、バイロイトにいくことを、「バイロイト詣で」と呼んでいる。

一方、「ザルツブルグ音楽祭」は、数多くのオペラや、コンサートが、この、オーストリア有数の古都で、7月末から8月いっぱいまで間、街じゅういたるとこ ろで開催され、この小さな街は、活気に満ちたものになる。そして、フェスティヴァルにやってくる聖アキ中からのファン聴衆も多種多様で、コンサート・オペ ラに集まる聴衆たちの服装もこちらの方が、バイロイトに比べ豪華でバラエティに富んだものとなる。そのため、音楽祭にやってくる人々をウォッチングするた めにわざわざザルツグルグにやってくるひとまでいる、という話さえ聞いたことがある。

 

祝祭都市・ザルツブルグ

ドイツ語で塩は「ザルツ」、「ブルグ」は城や城砦を意味する。この街は、紀元前1000年ころから、岩塩の採掘で栄えた、ウィーンに次ぐオーストリア第二 の都市である。(といっても、人口は15万人弱に過ぎないが・・・)ちなみに、川崎市は、ザルツブルグと姉妹都市である。

しかし、この街を世界的に一躍有名にした人物がいる。1756年1月27日(ちょうど今から250年前)に生まれた、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。

彼は、ザルツブルグでも一番の目抜き通り、「ゲトライデ・ガッセ」に面するアパートメントで生まれた。ヴォルフガングは、幼少の頃から、天分を発揮し、ヨーロッパ各地で演奏旅行を繰り返し、最後は、ウィーンで35年間の短い生涯を終えた。

彼の作品は、今残っているだけでも600曲以上におよび、彼が亡くなって200年以上たった今でも、最も人気のある作曲家と言ってもよい。(ちなみに、彼 の作品につけられた、“K”番号は、モーツァルトの研究家・植物学者であった、“ケッヘル氏”がつけたもので、現在では、“ケッヘル番号”と呼ばれ、彼の 作品整理のひとつの指標とされている。)

もちろん、この街は、音楽以外でもヨーロッパ有数の観光都市である。音楽祭以外の時期でも、世界各地からの観光客でごったがえしているし、1996年に世 界遺産にも指定されている。さらには、2010年の冬季オリンピックの開催地として立候補したが、残念ながら落選。しかし、2014年の冬季オリンピック の候補地として再度立候補している。

 

ザルツブルグ音楽祭

音楽祭の代名詞とさえいわれている、ザルツブルグ音楽祭の歴史は、1842年の「モーツアルト・フェスト」にさかのぼることが出来る。しかし、今ある音楽 祭の形が整ったのは、「ザルツブルグ祝祭劇場協会」が創立された1917年と言っても良いだろう。そして、正式の音楽祭のスタートは、1920年8月22 日に、フーゴー・フォン・ホフマンスタール作の劇「イェーダー・マン」の上演ということができる。残念ながら、この年は、この劇作品の上演のみで音楽祭は 終了したが、翌年からは、コンサートなどが行われ、次第に現代のフェスティヴァルの形式をとるようになる。

ところで、ちょっと話は変わるが、「ザルツブルグ音楽祭」は、ドイツ語では「Salzbuger Festspeile」と表記する。そこには、「音楽」 を表す、「Musik」という言葉がない。実は、このフェスティヴァル、さっき書いたように、そのルーツは「演劇」であったし、いまでも、「音楽」(もち ろんこれが、このフェスティヴァルのメインではあるが)と「演劇」そして、「美術」を総合した非常に大規模なイヴェントなのである。

さて、1920年にオープンした、ザルツブルグ音楽祭は、ヨーロッパ有数のフェスティヴァルになるにはさほど時間はかからなかったようである。

記録を見ると、1925年頃には、今でも有名な芸術家(ワルター、トスカニーニ、クラウス、レーマン、ホルツマイスター・・・彼が後年、この音楽祭のメイ ン会場となる「祝祭大劇場」を設計することになる)たちが集うようになる。その後、第二次大戦による中断があったりして、紆余曲折があるが、長くなるので 省略する。(詳細について興味がある方は音楽祭のホームページ、www.salzburgfestival.atを見てほしい。ここには、音楽祭創設時か らの詳細な上演記録など、貴重な資料の閲覧から、チケット購入がオンラインで出来るなど、非常に良く出来たホームページです。ぜひいちどご覧ください。音 楽祭グッズやCDも入手できる。)

以下次号

(ベーレンプラッテ 店主)

ステレオサウンド159号(2006年6月発行)

再びベルリン・イエス・キリスト教会

金子 学

いよいよ、ドイツ・ワールドカップが開幕した。その決勝戦が行われるドイツの首都、ベルリンの中央駅、ツォーロギッシャーガルテン駅(近くに巨大な動物 園:ドイツ語で「ツォー」 があるため、この名前がついた)は結構小さい。東京都内で言えば「新橋」駅ほどの規模だ。ドイツ国内でも、ほかの都市の駅(た とえばライプツィッヒやハンブルクの中央駅)の方がはるかに大きい。(この「ツォー」駅の近くに、ドイツ最大のターミナル駅を建設中、という話を聞いたこ とがあるが、はたして、完成したのだろうか?)

 

「イエス・キリスト教会」へ

それはさておき、ツォーロギルシャーガルテン駅から地下鉄で約20分、以前美術館で有名だったダーレム地区のティールプラッツ(Thielplatz)駅 に到着する。ツォー駅での喧騒がうそのような、閑静な住宅街だ。ここから徒歩約5分のところに、レンガ造りの質素な教会がある。

この古ぼけた教会が、ドイツはもちろんのこと、わが国のクラシック音楽ファンの心を揺さぶり続けた、ベルリン・フィルを初めとする名演奏・名録音のふるさとであることは、あまり知られていない。

私自身、この教会の名を知ったのは、実は今から30年以上も前のことである。私が友人たちとクラシック音楽のレコードを聞き始めた頃の話だ。当時、絶頂期だったカラヤンやベームが、ベルリン・フィルなどを指揮したレコードの録音データにはほとんど、

録音場所:ベルリン・イエス・キリスト教会

と印刷されていたのを、興味深く見た覚えがある。というのは、当時、十代初めの私には、クラシック音楽の録音と教会建築との接点がいまひとつ理解できな かったのである。片田舎の小さな町で少年時代を過ごしていた、その頃の私には、はるかかかなたドイツでのレコード録音風景などについて知る由もなく、レ コードジャケットの録音風景(当時の私にとっては、ただひとつの資料!)を見ながら、レコードを聴き、遠い彼方での名演奏に思いを馳せていたのを、昨日の ことのように覚えている。

イエス・キリスト教会を初めて訪れたのは、四年前のことであった。(このときの話は、以前、このページに書いた。)そのときは、長い間、顔を見ることもな く文通を続けた友人に初めて会ったときのような感動を覚えたのであるが、訪問も回を重ねるにつれ、もっとこの語らぬ友人について、知りたくなった。幸い、 教会で働いている人に話を聞くことができた。

 

その歴史

イエス・キリスト教会が現在の姿を現すことになったのは1930年頃だという。ご存知のように、教会の内部は天井が高く、内装には音の反射率が高い材料が 多く使われているため、残響時間がコンサートホールよりもずっと長い。それ故、集会のときなど、牧師の説教の内容が良く聞き取れない。そこで、何回かにわ たって、改修工事がなされて、音響的な改良が行われたという。そのため、ここでは、教会の内部でも、10メートル近く離れた人とでも困難なく会話が行われ る。かといって、適度な残響感はそのままである。これこそ、この教会をレコーディングのメッカたらしめた秘密なのだ。

教会で働く人の話によれば、この教会をクラシック・コンサートに初めて使ったのは、ドイツの名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーだったいう。

1944年のベルリン大空襲で、本拠地の旧フィルハーモニーホールをなくした名指揮者とベルリン・フィルは、戦後、映画館(ティタニア・パラスト)や講堂 などで演奏活動を再開したが、音響的には満足しなかったという。そこで、この教会に白羽の矢がたてられたわけであるが、彼は、この教会のアコースティック が、ことのほかに気に入ったようである。その後、数は決して多くはないが、ドイツ・グラモフォンの名エンジニア、カイルホルツと組んだ、ハイドンやシュー マンなどの名録音は、いまだに、音楽ファンの心を揺さぶり続けている。その後の、カラヤンとベルリン・フィルを初めとする、クラシックの名録音の文字どお りの「量産態勢」については、以前お話したが、新フィルハーモニーホールが完成して40年以上経った今でも、録音やリハーサルに使用されていることから も、いかにここが優れたアコースティックを有しているかがわかるだろう。

今回の訪問では、「ベルリン放送交響楽団」のコンサートのためのリハーサルを見学することができた。四管編成のオーケストラの楽器を並べると教会の床面積 の約三分の二を占めてしまい、ちょっと窮屈ではあるが、音響的には、非常に優れている、とオーケストラのスタッフは語っていた。

幸い、この教会の歴史についての小冊子を入手することができた。ベルリンに行くと必ず行く古本屋の主人にも、ここについての資料を探してほしいとお願いし てきた。次回の訪問までに、もっともっと、三十年来の「友人」について知識を深め、また、このページで紹介できればこの上ない喜びである。

(ベーレンプラッテ 店主)

 

追記:

以前、このページで、火事で「廃墟」のようになってしまった、かつてDECCAのウィーン録音のホームグラウンドだった「ゾフィーエンザール」を紹介したが、ここの再建が決まったそうである。詳細は、また後ほど。

ステレオサウンド158号(2006年3月発行)

LP鑑定法(?)その3

金子 学

以前、このページで、DGGやEMIなどの名門レコード会社のレーベルの変遷を、今わかる範囲で説明をして、それらをまとめて当店のホームページに掲載し てみたところ、大きな反響があった。それだけ、この世界は、奥が深く、多くのオーディオファイルの関心を集めていることの証明なのだと思う。しかしなが ら、これらについては、まだまだ不明なところも多く(第一、本社にさえ、詳細な記録が残っていないことも多い!)、実際のところ、私を含めた、ファンの実 際の経験(目撃証言?)によるところが大きいというのが事実なのだ。

第三回を迎えるこのページでは、オランダ・フィリップス社のレーベルデザインの変遷と、その後わかってきたことの報告もしてみたい。(もし、これらのことでご意見等がございましたら、ご連絡いただければ、幸いでございます。)

 

オランダ・フィリップス

ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップスレーベルにも、数々のレーベルデザインの変遷がある。

ステレオ録音での最初のレーベルは、小豆色(海外のディーラーは、「マローン(栗色)」と呼ぶことが多い)の地の色に、大きな銀色の文字で 「HIFI-STEREO」と印刷されたレーベルである(写真1)。これを、多くのわが国ファンは文字どおり「ハイファイ・ステレオ・レーベル」と呼んで いる。

この頃の、フィリップス・トーンの特色といえば、しっかりとした彫りの深い直接音と少々少な目ながら、空間情報を豊富に持った間接音の見事なバランス感覚にある、と私は思う。

この時代の名録音盤といえば、真っ先にベイヌムとコンセルトヘボウの名演を挙げたい。この頃の、コンセルトヘボウでの録音は、後で取り上げる、ハイティン ク時代の録音に比べ、「響きの美しさ」よりも、オーケストラの音の重量感に私は心惹かれる。ちょうどこのホールで、二階席のステージの近くの席で聞いてい るサウンドイメージに近いのでは、と私は感じる。また、この頃のコンセルトヘボウ管弦楽団の音の美しさも絶品で、特にオーボエをはじめとする、木管楽器の 温かみのある音は、これ以降、ほかのどこのオーケストラ(コンセルトヘボウも含む)からも聞くことは不可能である。

「ハイファイ・ステレオ・レーベル」にはほかにも名盤は目白押しだ。ハスキルやグリュミオー、カザルスそして、いまだ現役で活躍中の、クラシック音楽ファ ン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアの、イ・ムジチ合奏団らの、このレーベルのLPにもし出会えたならば、多少の出費は覚悟して も、絶対にゲットすべきだ、と思う。後日、後悔することは、まずないといってよい。

次の世代のレーベルは、「シルバー・ロゴ」(写真2)と「ホワイト・ロゴ」といわれている。これは、レーベル上部に、「HIFI-STEREO」のロゴの 代わりに、「PHILIPS」の社名ロゴが大きく印刷されたものである。ほとんど同じデザインであるが、初期のものは、ロゴが銀色で、後期のものは白で印 刷されているため、一般的にはこう呼ばれているらしい。

1960年代の半ばから1980年代までの長きにわたって、このレーベルは使用されてきたが、ご存知のように、この頃の同レーベルには、名演・名録音盤で あふれている。まず、特筆すべきは、やはり、ハイティンクとコンセルトヘボウのあまりにも多い録音である。そのどれもが、高水準のクオリティなのがすご い。ベイヌム時代に比べ、ホールトーンを積極的に捕らえた録音は、ホールの平土間のちょっと後ろの方で聞いたサウンドイメージなのだが、実際にホールで聞 くよりも、各楽器のディテールが手に取るようにわかり、しかも、決して、混濁することがない。ここに、アナログ録音の、完成されたひとつの姿を見出すこと ができないだろうか?

ほかにも、ブレンデルやデイヴィス(ストラヴィンスキーの「三大バレエ」のすごさっていったら・・・)などなど、きりがない。

この後、デジタル録音の時代に突入する。レーベルも、写真3のように、大きくデザインを変えたものになる。

 

その後わかってきたこと

最近、モノラル再生が元気だ。
わたしも、この時代(1950年代から1960年代はじめ)の名盤を手にすることが多くなってきた。

最近、ちょっと気になることを見つけた。写真4は、ドイツエレクトローラのファーストレーベル、「半円ニッパーレーベル」である。その、レーベルに向かっ て、時計の6時の位置、レコードの回転数(33回転三分の一)が印刷されている、それをよく見たら、回転数が、正方形で囲まれているもの(写真5)と、逆 三角形で囲まれているもの(写真6)の二種あることに気がついた。同じ番号、ジャケットデザインでも二種あることがある。(正方形が古いはずだ。)EMT のLPプレーヤー(927や930)のイコライザーカーブのスイッチのポジションには、これとまったく同じマークが印刷されている。この謎の解明は、次回 までの宿題としたい。

(ベーレンプラッテ店主)

ステレオサウンド157号(2005年12月発行)

無冠の帝王 ベルナルト・ハイティンク

金子 学

バブル経済の時代の頃から、日本は「クラシック音楽消費大国」になってきた。それは、バブル崩壊後の現在でも続いている。たとえば、今年を例にとっても、 ウィーン・フィルやベルリン・フィルをはじめとする、名門オーケストラやオペラハウスの来日公演が目じろおしだし、ポリーニなどの名手たちのリサイタル、 そして、日本の音楽家達のコンサートを含めると、東京だけでも、365日必ずどこかで複数の音楽会が開催されていることからもわかる。また、日本全国には 2000をはるかに超える数の公共ホールが建設されているらしい。これらの数字は、驚くべきもので、欧米の水準をはるかに越えていることになる。

ここに、ちょっと興味を引かれる現象がある。内外の音楽家に対する我々日本人による評価が、時には、欧米の人々のそれと大きくずれることがあるのだ。たと えば、日本では非常にメジャーで、クラシック音楽にあまり興味のない人にとっても、けっこう名前の知られている演奏家あっても、ヨーロッパやアメリカで は、無名であったりすることはざらにある。また、その逆も数多くある。欧米では、非常に高い評価を得ているのに、こちらでの評価はいまひとつ、というアー ティストは数多い。今回登場の、オランダの巨匠ベルナルト・ハイティンクもそのひとりである。

1929年、アムステルダム生まれ。同地の音楽院で指揮を学ぶ。卒業後、オランダ放送フィルのヴァイオリン奏者を務めるかたわら、フェルディナント・ライ トナーに指揮を学び、1955年に同管弦楽団の第二指揮者となり、56年、指揮者としてデビューする。そして、同年にチャンスが訪れる。急病のジュリーニ の代役で、コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮をして成功を納め、翌年に第一指揮者となる。1958年、オランダの名指揮者ベイヌムの推薦でロス・アンジェル ス・フィルに客演、1959年には、コンセルトヘボウ管弦楽団とイギリスへの演奏旅行。そして、同年に急逝したベイヌムの後を受け、1961年にわずか 31歳の若さでヨッフムとともに同オーケストラの四代目の主席指揮者に就任した。1962年には、同オーケストラと共に初来日している。

1962年にヨッフムが退くと、いよいよ単独でこの名門オーケストラを統率することになる(1988年まで)。1967年にはロンドン・フィルの主席指揮 者、70年からは芸術監督を79年まで務めた。また、77年からはイギリスのグラインドボーン音楽祭の音楽監督も務めた。1973年にはウィーン・フィル に登場、87年から2001年には、ロンドン・コヴェントガーデン王立歌劇場音楽監督、という華々しい経歴をもつ現代屈指の名指揮者の一人である。

現在では、ほとんど全部のポストを去り(名誉職は除く)、世界各地の名門オーケストラの客演を続けている。たとえば、今シーズンでのおもな客演オーケスト ラを並べてみると、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロンドン・フィル、ロンドン響、フランス国立放送交響楽団、ボストン交響楽団そして、古巣のコン セルトヘボウ管弦楽団、と世界の一流オーケストラを指揮している。主要ポストを持たないのに世界のオーケストラから引っ張りだこの状況だ。まさに、彼は、 「無冠の帝王」といってよい。(現在のベルリン・フィルの音楽監督、ラトル氏は「最も尊敬すべき指揮者」としてハイティンクの名を挙げ、同フィルの客演指 揮者の中では、最も多い指揮台への登場の機会を与えている。)

しかしながら、一部のマイナーレーベルを除き、彼のレコーディングの話は、まったく聞かれない。事実、1980年代からスタートした、ウィーン・フィルと ベルリン・フィルとのブルックナーとマーラーの交響曲全集は残りわずかを残して、中断されたままだ(PHILPS)。そこには、レコード市場として最も大 きな力を持つアメリカと日本のマーケットからの意見力が大きいと聞くが、果たしてどうであろうか?

残念ながら、日本では、ハイティンクの評価はあまり芳しいものではない。よく、彼のことを、「レコーディングの数だけ多い指揮者」という人がいる。たしか に、三十台にして、世界一流のオーケストラの音楽監督として、また、同オーケストラの所属するPHILPSが、DGGやDECCAに対抗するためもあっ て、ハイティンクとコンセルヘボウの録音を彼のキャリアの初期から非常に多く行ってきた。特に交響曲においては、おもな作曲家の作品においては、すべてと いってもよいほど、録音が(曲よっては何回も)残されている。そんなためもあってか、彼は、特にわが国においては「レコーディング要員指揮者」とさえ、い われてきた。あまりにも、それは残念ことだ、彼の録音を聞くたびそれを実感する。

彼の演奏に対する評価として、「退屈な演奏」という言葉が使われる。果たしてそうであろうか?

彼の演奏には、テンポや各楽器のバランスなど他の名演奏家のものとくらべて、何も「目新しいもの」は感じられないことは確かだ。しかし、演奏を聴き終わった後には、「すべてが満たされている」と感じるのは私だけではないであろう。

先日、出張先で、彼とバイエルン放送交響楽団のマーラーの交響曲第4番を聞いた。ミュンヘンでも彼への期待度は高く、演奏前から、場内は熱気にあふれてい た。演奏は、非常に優秀で、新聞の評も絶賛に満ちていた。私は、この演奏(特に、後半の2楽章)を聞いていて、不意に眠気に襲われた。いや、このときだけ ではない。以前にも、彼の演奏を聞いていると、ふと、眠くなる時がある。もちろん、演奏がつまらなくて、退屈しての眠気ではない。すべてが、満たされてい るという充足感から来る眠気だ。それほど、彼の演奏は充実している。

この原稿を書くため、彼のPHILPSに収められたLPをいくつか聞いてみた。ブルックナー、マーラー、シューマンをはじめとするドイツ音楽から、ド ビュッシーやラヴェルなどのフランス音楽まで、多種多様の音楽からは、いつも紳士的でありながら、心からの音楽への共感を忘れないハイティンクの人格が見 え隠れしていて、すばらしいひとときを送ることができた。特にLPでは、1970年から1980年の頃の録音が演奏・録音共に絶品であると感じる。彼と彼 らの、この頃の録音を聞いていると、この時代が、いわゆる「LP文化」のピークのひとつであったと、つくづく思うのであるが・・・。

(ベーレンプラッテ・店主)

ステレオサウンド156号(2005年9月発行)

フィレンツ・フィリッチャイ

金子 学

残念ながら、わが国にはたったひとつしかないが、ドイツ各地には、特色のある、放送局おかかえのオーケストラが数多くある。

ポルシェやメルセデス・ベンツの本社がある、「バーデン・ヴュルテンブルグ」州の首都、シュトゥットガルトにも、南西ドイツ放送(SWR)交響楽団・・・ 日本名で「シュトゥットガルト放送交響楽団」・・・が1946年の創立以来、ドイツ名門オーケストラのひとつとして、活発な活動を続けている。

最近、ここが製作した、昔のテレビ番組をDVDで楽しむことができた。内容は非常にシンプルで、シュトゥットガルト放送交響楽団の演奏会と、それに先立つリハーサルを収録したものであったが、これらがすこぶる面白かった。

まず、登場する指揮者たちの顔ぶれがみごとである。ジュリーニ、ノイマンそしてクライバーなど、ビッグネームであるのだが、あまり素顔に接することができ ない面々をそろえたのがうれしい。さらに興味深いのは、これらに登場する指揮者のほとんどが、「客演指揮者」であることだ。

気心が知れた、「主席」指揮者や音楽監督等とのリハーサルとなってしまうと、オケと指揮者の「せめぎあい」が少なくなってしまい、見るものには、ちょっと退屈してしまうからだ。

この数枚のDVDの中では、私には、特に「フィレンツ・フリッチャイ」のリハーサル風景が特に印象的だった。(これは、DGGのLPでも聞ける。)

 

フィレンツ・フィリッチャイ

1914年ハンガリー・ブタペスト生まれ。リスト音楽院でバルトークやコダーイに音楽を学び、在学中に指揮者としてデビューする。大戦後は、1946年に いち早くウィーンに招かれたのを皮切りに、翌年には、ザルツブルグ音楽祭で、急病のクレンペラーの代役として、アイネムのオペラ「ダントンの死」の初演を 指揮してセンセーショナルな成功をおさめた。この頃から、あまりにも短く、輝きに満ちた、彼のキャリア始まる。

1949年にRIAS響(1954年からは、ベルリン放送響)の音楽監督となり、新設間もないこのオーケストラを、短い間にベルリン フィルに匹敵する団 体に育てあげるとともに、DGGに多数の録音を行う。この頃のDGGは、フルトヴェングラーの早すぎる死の直後、また、カラヤンがこのレーベルに復帰する 前だったので、文字どおり彼は、DGGの「看板指揮者」として、ハイドンから、現代音楽まで実に多彩なレパートリーの録音をおこなったのだ。

その後、同楽団を去り、ヒューストン響や名門であるミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の音楽監督を歴任することになるが、1959年、再びベルリン放送響 に復帰する。翌1960年にはベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督にも就任し、新オペラハウス杮落としの公演を指揮したが、その直後、不治の病に倒れ、 1963年に、48歳の若さで没した。

 

感動的な指揮ぶり

話を、DVDに戻そう。この番組が収録されたのは、1960年6月のことである。多分、この頃、すでに彼の体は、不治の病に冒されていたに違いない。(この番組中でも、何回か、それをにおわすことを言っている。)
今回、彼が取り上げた曲は、スメタナの「モルダウ」である。

彼の指揮ぶりは、リズムを正確に刻むことよりも、音楽がもつ雰囲気や音楽に登場するボヘミヤの人々のこころを表現することに終始する。その姿は、実にエネ ルギッシュで、大げさなジェスチャーをまじえたり、床を踏み鳴らすなど、最近の指揮者のスマートな指揮ぶりを見慣れた目には、ちょっとこっけいに見えるか もしれない。

しかし、そこから生まれる音楽は、実に感動的である。はじめは、彼の指揮に戸惑いがちのオーケストラのメンバーたちも、彼の情熱と集中力に圧倒されて、見事というほかのない演奏に仕上がっていくさまが見ている私たちにもストレートに伝わってきて、胸が熱くなってくる。

この「モルダウ」のリハーサルも大詰めを迎えたところで、彼は、「ここでは、音楽は生きることはすばらしい、と歌っています」と楽員たちに語り、それに続 けるように、ちょっとはにかみながら、希望するように「生きることは、本当にすばらしい!」とつぶやく。もちろん、この頃の彼の心の中には、自分にはもう 残された時間が短いということは既にあったにちがいない。だからこそ、なにか戸惑ったような表情に、見るものの心は、圧倒されてしまうのだ。

 

数多い録音

前にも話したとおり、彼がDGGに録音を始めた頃は、録音に積極的な指揮者は彼くらいであった。また、彼自身、熱心なオーディオファイル(という言葉が、 当時あったかどうかは不明であるが)であったので、いつも、自分の録音について、調整室でレコーディング・プロデューサーやエンジニアたちと熱心に議論し たとあって、数多くの録音のすべてが、音楽的にも、録音技術的にも、今でも一級品と言えるといえるものばかりだ!また、それらが、現代の音楽ファンたちに も、新鮮な喜びや感動を与え続けているのは驚異的だ!その根底には、一人の芸術家(人間)としての志の高い意志力があるからに違いない。

彼の多くのLPの中では、まず、バルトークをお勧めしたい。(いわゆる、「お国もの」という意味ではまったく無い!)しなやかで、弾力性の十分なメロ ディーの歌わせ方や、すさまじいまでの集中力が、バルトークの音楽ぴったりなのだ。また、モーツァルトやハイドンなどの「古典」ものもすばらしい。ワル ターのように、メロディーをたっぷり歌わせた音楽を「甘口」ともし言うなら、これは、「辛口」な音楽はあるが、その高貴な表現からは、彼らの音楽だけがも つ、ある種の切なさが、聴くものに伝わってくる。

1950年代も終わろうとした頃から、急に彼の音楽は変化を見せる。ステレオで聴ける、ベルリン フィルとのベートーヴェン、ドヴォルザークやウィーン響 とのモーツァルトのLPは、以前の彼の録音からはかなり趣を変えている。テンポがずっと遅くなり、音楽自体のスケールが巨大になってくるのだ。そのため、 晩年の彼は、「フルトヴェングラーの再来」とまで、いわれるようになってくる。

もし、彼があと、10年、20年そして、現代まで、と長生きしていたら、いったいフリッチャイの音楽はどのような変貌を遂げたのだろうか?それを考えると、誠に残念な、そして、とても悲しい気持になってくる。

(ベーレンプラッテ・店主)

ステレオサウンド155号(2005年6月発行)

LPのふるさと ウィーン楽友協会(その1)

金子 学

 

「ホールは楽器である!」

と、よく言われるが、このことばの意味をこのときほど、痛烈に感じたことはない。

今から10年以上も前の1993年5月ウィーンのことである。音楽ファンにとっては、文字どおり、「夢の競演」が週末に繰り広げられたことがある。

ウィーン・フィルの、いわゆる、定期演奏会は毎月一回、週末土曜日午後と日曜日午前に行われるマチネー 演奏会である。これと同日の夜に、アバドとベルリン・フィルがウィーンにやってきて演奏会を開いたことがあったのだ。もちろんホールは、どちらもウィーン 楽友協会大ホールである。

ウィーン楽友協会のホール(ムジークフェラインスザール)は、毎年お正月恒例のウィーン・フィルによる、「ニューイヤー・コンサート」でおなじみの、世界 でもっとも有名なコンサートホールといっても良い。ことに、音響に関しては、世界でもっともすばらしい、という賛辞はいたることころで聞かれる、この 「ホール中のホール」で、ヨーロッパ、いや、世界を代表する2大名門オーケストラが一日の間で競演をする! これこそ、「夢の競演」という言葉がぴったり のビッグイヴェントである。

ウィーン・フィルの指揮者は、その頃あたりから、「幻の指揮者」と言われたカルロス・クライバー(惜しくも昨年7月に亡くなってしまった)、かたや、つい その前まで、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めて以来、久々ウィーン登場となったベルリン・フィルの新音楽監督(当時)のアバドの両者は、もちろん、決 して競い合っていたわけではないが、両オーケストラの集中力や観客のヴォルテージも極限まで達し、非常に白熱した演奏が、ホール内に一日中駆け巡っていた ことは言うまでもないだろう。

しかし、ベルリン・フィルの演奏には「?」がちょっと(ほんのちょっとではあるが)つけられた瞬間があった。ベルリンのフィルハーモニーで録音されたレコードで聴ける重厚なハーモニーがときおり、「すこしうるさいかな?」と思うことがあるのだ。

ウィーン・フィルの音色は、いつ聞いても優雅でチャーミングである。フォルテシモであっても、少なくともムジークフェラインでは、音が割れたりはしない。 それどころか、音量が、ホールの飽和状態になる寸前でコントロールされているように聞こえる。このバランス感覚が、聞くものに最上のひとときを与えてくれ るのだ。

それに比べると、ベルリン・フィルは一寸分が悪い。彼らの本拠地ベルリン・フィルハーモニーは楽友協会に比べ、ホールの容積も客席数もひとまわり大きく、 残響(残響時間という意味だけではなく)が少なめだ。そのため、常にベルリン・フィルは、ウィーン・フィルに比べフォルテの時は、大き目の音量で演奏する ことをしいられている。それが響きの量の多い楽友協会では、フォルテシモになると、音が割れてしまう。(もちろん、彼らの本拠地であるフィルハーモニー・ ホールでは絶対ありえないことだ。)

オケの鳴らし方、という点からは、この「ウィーン決戦?」は、楽友協会ホールの音響を隅々まで知り尽くしている、ホームのメリットが勝敗を決めてしまったのではないか。

アウエーの分が悪いのは、サッカーだけではないようだ!

ウィーン・フィルのレコード録音会場としては、ホームが二箇所ある。このムジークフェラインとゾフィエンザールである。主に、前者はEMIとDGのメイン会場、そして、後者はDECCAの本拠地である。

どちらのホールも、名演奏の宝庫であるが、ゾフィエンザールでのDECCA録音は、ウィーン・フィルの音色の個性よりもDECCAの音、すなわちカルー ショウをはじめとする、天才エンジニアの個性を強く感じる。もちろんこれは、これですばらしい!いつ聞いても惚れ惚れする。この話を始めると長くなってし まうので、DECCAのウィーン録音については、また、時を改めてお話したい。

楽友協会でのウィーン・フィル名録音というと、私個人としては、学生時代に、オンタイムの新譜として聞いた、1970年代の、晩年のベームや若き日のアバドとの管弦楽曲やグルダやポリーニらとの協奏曲のDG録音のLPがいまだに脳裏に焼きついて離れない。

1950年代後半~60年代における、DECCAやEMIのステレオ黄金時代の録音に比べると、個性という点では分が悪いが、ウィーン・フィルとムジーク フェラインのすばらしい音響をこれほど忠実にとらえた録音も少ないと思う。1970年代はやはり、アナログ録音の完成期だったといってもよい。ちょっと聞 くと、物足りない、つまらない音に聞こえるかもしれないが、機器のグレードが上がり、チューニングも万全のシステムで聞くと、このうえない、チャーミング なサウンドが、聴く者を幸せにする。そんなLPばかりなのだ。

わたしは、いまも、これらのLPを、システム、そして私自身のリファレンスとしている。ベームやアバドが魅力的に聞こえない時は、システムのチューニングか自分自身の感性に「?」をつけることにしている。

(ベーレンプラッテ・店主)

ステレオサウンド154号(2005年3月発行)

「完璧」と「高潔」 私の好きな二人のピアニスト(その2)

金子 学

 

ディヌ・リパッティ

「良い音楽家になるだけでは、決して充分ではない。神様から選ばれた「楽器」にならなければいけないのだ」
と、今回の主役である、ルーマニア生まれのピアニスト、ディヌ・リパッティ(1917~1950)は、死の床で息を引き取る間際に、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴きながら語ったという。

1917年生まれの彼は、ブカレスト音楽院で学んだ。1943年にウィーンで開かれたピアノ・コンクールで第二位を取り、楽壇の注目を浴びることになる。 しかし、このとき審査員だった名ピアニストのアルフレッド・コルトーは、順位に不服を申し出て辞表を提出した。この事件と、コルトーとの出会いが、若きリ パッティの栄光に満ちたキャリアのルーツとなるのだ。

この後、コルトーの勧めによって彼はパリで、ピアノをもちろんコルトーに、指揮をシャルル・ミュンシュに、そして、作曲をルーセルとナディア・プーラン ジェに学んだ。後にも記すが、若き日の彼が馴染んだ、パリの空気と教育が、いかに彼の芸風に大きな影響を与えたかは想像に難くない。

第二次世界大戦中は、ルーマニアに難を逃れていた彼であるが、戦後、西ヨーロッパに復帰して演奏活動を開始する。しかし、その頃に発病した白血病の為、1950年12月2日ジュネーブで他界してしまう。享年33歳。

 

独特な芸風、そのルーツ

ルーマニア出身の音楽家には、ユニークな個性の持ち主がけっこういる。リパッティを始めとし、彼の親友であったクララ・ハスキルや指揮者のチェリビダッケ などだ。ルーマニアは、スラヴ圏に囲まれたラテン系民族国家という特殊なロケーションに位置する国家である。それゆえ、文化的にもスラヴの野生とラテンの 洗練という独自の味わいを持っている。それは、彼らの演奏に接すれば、それとなく感じることができるであろう。

コルトーの勧めで、若くしてパリの風に触れたリパッティの演奏には、前述のルーマニア人特有の芸風のほかに、フランス風のチャーミングな味わいが感じ取れる。これこそ、当時のパリのはなやかなフランス文化の香りではないのかと、彼の演奏を聴きながら私は考えることがある。

一方、スラヴ的な野性味も、彼の演奏から聞き取ることも決して難しくはない。たとえば、モーツァルトやショパンのピアノソナタでの、特に左手の表情におけるデモーニッシュといってもよいほどの表現はいつ聴いても我々の心を打つのである。

 

厳選されたレパートリー

彼のLPへの録音は、ほんのわずかしかない。その理由は二つある。

ひとつは、その活動期間の短さである。ごくわずかの、例外(テスト録音がほとんど)を除いて、彼のレコーディング用に神様が用意してくれた時間はわずか約三年であった。

いまひとつの理由は、彼の「誠実さ」にあった。彼のレパートリーは決して狭くはなかったが、彼は、自分が完璧だ、と思わない限り、決して人前では弾かな かったらしい。(リパッティは、毎日12時間も練習したというが、ちょっとでも、思い通りに弾けないフレーズがあると、自分の指を、「この、マカロニの 指!(中身がないと言う意味らしい)」と呼び、悲しがったという。それくらい、自分自身に対して厳しい人間であった。)また、断片的であるが、かなりの数 のレコーディングを残したが、結局彼の満足できる出来ではなく、中断されたということである。

ここで、彼の数少ないコロンビアへの録音を思い出してみると以下のようになる。

ショパン
14のワルツ集
ピアノソナタ第3番
小品がいくつか(「舟歌」やマズルカ)

バッハ
パルティータ第1番
「主よ、人の望みよ喜びを」ほかの小品

モーツァルト
ピアノソナタ第8番
ピアノ協奏曲第21番(指揮:カラヤン)

シューマン
ピアノ協奏曲(指揮:カラヤン)

グリーグ
ピアノ協奏曲(指揮:ガリエラ)

他には、小品(自作を含む)がいくつか、そして、彼の死後発見された放送録音(残念ながら、録音状態はあまり良くない)がごく少数あるくらいである。

これらそれぞれが、まことに「お見事」と叫びたくなるくらいの名演である。

まず一聴して気づくのは、「湿っぽさ」が微塵もないことである。それが誠にすばらしい。たとえ、それがショパンの「ワルツ集」のような曲でも、センチメン タルな味わいなど一切なく、むしろあっさりとした表情、そしてやや速めのテンポで音楽は進められる。しかし、その音楽は、いつでも、決して高貴さを失わ ず、エレガントななかに哀愁をひめた、聞く人すべての感動をさそう見事な仕上がりとなって我々の心に迫って来るのだ。

1941年(死の9年前、つまり24歳のとき)に録音された、彼のプライヴェート録音を最近入手した。(CDではあるが・・・)幸いにも、それらと同じ曲 を最晩年に録音したLPとの聴き比べが今もできる。どちらも、技術的には完璧で、申し分がない出来である。すでに、弱冠24歳の若き天才は、音楽的には完 成されたものだったことに驚かされる。しかし、演奏全体から受ける印象は、最晩年ものに比べるとなにか物足りない。うまく話せないが、「感銘度」がまるで ちがう。後年の演奏には、オーラが感じられるのだ。人間というものはたった9年間でこんなに成長できるのか?と、驚いてしまう!しかし、この間に味わった 彼の、(不治の病から受けた)痛み・苦しみ、そして、悲しみの大きさを考えると、わたしはいつも複雑な感慨をもってしまう。(追伸:彼の最後にして、最も 有名なLP「ブサンソン告別演奏会」について思いをめぐらすスペースが無くなってしまった。これについても、いつかここで、お話したい。

(ベーレンプラッテ・店主)

ステレオサウンド153号(2004年12月発行)

「完璧」と「高潔」 私の好きな二人のピアニスト(その1)

金子 学

バックハウス、ケンプ、ポリーニ、アルゲリッチ、ハスキル、・・・、私が実演やレコードで大きな感銘を受けたピアニストたちは数多い。しかし、「録音」と いう行為を通して、スピーカの前で、生涯忘れるとこのできない感動を私に与えてくれ、彼らのLPをターンテーブルに乗せるたびに、新たな発見と喜びに出会 えるピアニストが、私には二人いる。アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920-1995)とディヌ・リパッティ(1917-1950)の両巨匠のことである。

 

「完璧」への執念・・・ミケランジェリ

磨き抜かれた透明な響きと、徹底した表現で、20世紀後半のピアノ界でもひときわ輝いたミケランジェリは、1920年に北イタリアの古都ブレジアに生まれ た。4歳でピアノ教師の資格を持つ父親にピアノの手ほどきを受け、10歳の時にはミラノのヴェルディ音楽院に入学した。そして1938年の19歳の時、 ジュネーブ国際コンクールで優勝し、審査員であったコルトーに「リストの再来」と絶賛された頃から、彼の世界的なキャリアが始まることになる。

しかし、まもなく第二次世界大戦が始まったため、空軍に入隊し、中尉まで昇進したが、ドイツ軍の捕虜となってしまう。戦後は、1946年に演奏活動を再開 するが、健康を害して演奏活動を休止し、後進の指導に専念しながら、山男のような生活を送ったという。1950年代末、彼は突如として演奏活動を再開す る。その後、アメリカでの演奏旅行では圧倒的な成功をおさめ、1965年には初来日して、以来4回にわたり日本を訪れた。1972年以降は、スイスのル ガーノに居を移し、世界各地を演奏旅行で訪れて圧倒的な名声を築くが、1995年、心臓病のため、ルガーノに没した。

「私は他人のためにではなく、ただ自分自身のために、作曲家への奉仕の為に演奏する」と、あるインタヴューで語ったらしいが、この言葉こそ、彼の生き方すべてを象徴していると言ってよいだろう。

徹底した完璧主義者だったミケランジェリは、キャンセル魔として知られた。コンサート開演直前でも、平気でキャンセルするのだ。(事実、筆者も、日本でコ ンサート開始10分前のキャンセルや、演奏会が開かれても、途中で中止といったアクシデントに見舞われたことがある。)もちろん彼自身の健康上の理由もあ るが、楽器の(私のような素人目からは)些細なコンディション故のキャンセルも多々あったという。しかし同時に、パーフェクトに調節されたピアノに向か い、超人的なテクニックで完璧に楽器をコントロールするミケランジェリの演奏には、決して、聴衆に名人芸を誇るところは微塵も感じられなかった。ピアノに もそして自分自身にも厳しく完璧を求める、この姿勢は、作曲家と音楽への奉仕の心の表れだったに違いない。

SP時代から、レコーディングのキャリアの長い彼ではあるが、自己に対してきわめて厳しいことから、残されたレコードはその名声に比して極度に少ない。さ らに、その大半が本人から許可を得ていない古い放送録音や実際の演奏会ライヴ録音であるため、公式にリリースされたLPはほんの数えるくらいだ。しかし、 それらは、聴くものすべてを虜にしてやまないほどの強烈な魅力を持っている。

二十年以上も前のことだったと思うが、DGから出された、ドビュッシーの「子供の領分」と「映像」を組み合わせた一枚をはじめとする一連の録音(ベートーヴェンのソナタ第7番とショパンの小品集)を聞いた時のことを、私は今でも昨日のことのように覚えている。

「これは、私が今まで慣れ親しんで聞いてきた“ピアノ”という楽器とは違う楽器だ!」と「子供の領分」第一曲の妙なる調べが、当時の私のお粗末なスピ-カ から出た瞬間にそう思った。控えめな表情のなかに、すべてを語っているかのような徹底した表現、どんなに難しいパッセージでも、それを微塵も感じさせな い、完璧なテクニック(というよりピアノをコントロールする能力)に打ちのめされてしまったのだ。
それにしても、彼の音色は何てすばらしいのだろう! タッチがきれいなピアニストは他にも多くいるけれど、彼は別格だ。特に、ピアニッシモからフォルテッシモまでの音色のコントロールが完璧になされているのには、何度聴いても驚嘆の念を禁じえない。

1965年に彼が初来日したした時のことである。彼の演奏を聴いたある評論家は「彼の音色はモノクロームだ」と言ったという。また、ある評論家は「非常に 色彩豊かだ!」と評したという。私は、どちらの意見も正しいと思う。それだけ、彼の演奏はニュアンス豊かで、聴きようによっては、いかようにも聞こえてく るのである。

そのデリケートな演奏を見事に捕らえたDGの録音テクニックもすばらしい。私が知る限り、これ以降、少なくともピアノ音楽に関しては、演奏の微妙なニュアンスをこれ以上、克明に捕らえた録音には出会った記憶がない。

それ以来、これらのLPは、私のオーディオ・チェックレコードになってしまった。ミケランジェリの微妙なニュアンスが伝わらないシステムは、どんなにス ペックが良くとも、(少なくとも私にとっては)優秀なシステムとは言えない、と思えるようになってきたのだ。ということは、これらのLPが私に、「録音 (オーディオ)」という芸術のジャンルが存在することを教えてくれた初めての一枚だったということだろう。

深夜、小音量で彼のLPを演奏してみる、その、少しはにかんだような、ナイーヴな彼の表情がわがシステムから、ほんのかすかでも聞こえてくると、私のシステムも捨てたものじゃないな、と思い、スピーカやアナログプレーヤーたちの労をついねぎらいたくなる。(続く)

(ベーレンプラッテ・店主)

ステレオサウンド152号(2004年9月発行)

LP鑑定法(?) その2

金子 学

「この世界は、奥が深いですね!」

前回のこの文章をお読みになったお客様から、感想をいただいた。ご好評にお応えして(?)、引き続き今回も、名門レーベルのレーベルデザインの変遷、その他について、思いをめぐらせてみよう。
今回は、イギリスの名門レーベル、コロムビアとEMI(HMV)編である。(あくまで、これらは、私の経験と、手元にある資料を基にまとめました。)

 

英コロムビア

コロムビア(Columbia)社のレコードで、最もオーディオファイルに人気があるのは、オットー・クレンペラーやアンドレ・クリュイタンス、ダヴィッ ド・オイストラフそしてレオニード・コーガンなどの名録音で非常に有名な、SAX(サックス)シリーズであろう。特に、スカイブルーの地にシルバーで文字 が印刷され、格子模様が全体に入り、ラベルの全周を広い帯で囲んでいる「ブルー&シルバーレーベル(写真1)」は名盤のオンパレードである。(番号で言う とSAX2526、2532をのぞくSAX2252から2539までのレコードではこのレーベルデザインがオリジナルである。)

SAX2252と2532、そして2540以降のオリジナルレーベルデザインは、「ハーフ・ムーン(あるいはセミサークル)」と呼ばれるものである(写真 2)。このデザインは、後述のEMI(HMV)のレイアウトに似ているが、レーベルのどこかに「Columbia」の文字が入っているため、簡単に見分け が付く。後期のレーベルは、EMIの「スタンプニッパー」とほぼ同じであるが、ニッパー犬の代わりに、音符が印刷されている。このレーベルの音質上の特色 は、デッカの鮮烈なサウンドに比べ、聴く者を包み込むような、音場感豊かな上品なサウンドといってよいだろう。

 

英EMI(HMV)

蓄音機のラッパに耳を傾け、熱心に(?)音楽鑑賞をしている名犬「ニッパー」君で有名なEMI(HMV)にも、多くのセンターレーベルのヴァリエーションが存在する。

最も初期のレーベルは、白地に円形のラベルで蓄音機とニッパー君をあしらい、その下にスピンドル孔を横切る「STEREOPHONIC」の文字があり、金 色で縁取りがされているデザインである。これを、私たちは、「ホワイト&ゴールド・ニッパー」と呼ぶ(写真3)。レコード番号で言えば、ASDの251か ら75あたりのLPはこのレーベルが、オリジナルである。

これ以降は、基本的には、赤の地に上半分の半円の中に蓄音機とニッパー君の絵が入り、半円の上部は「HIS MASTER’S VOICE」のロゴが印刷 されたデザインになる。これを、「半円(セミサークル)ニッパー」と呼ぶ(写真4)。番号では、ASDの576あたりから2470までは、オリジナルであ ると考えられている。

今まで紹介した、DECCAやColumbiaも名演・名録音のオンパレードであったが、HMVもそれに勝るとも劣らない名盤がカタログを埋め尽くしてい る。中でも、シューリヒトのブルックナー、ケンペ・バルビローリの一連の録音、そして、以前このコーナーでもとりあげたデュ・プレの名盤は、オーディオ ファイル・音楽ファンの憧れの的である。

特にASD429のモーツァルトとバッハのヴァイオリ協奏曲集(ジョコンダ・デ・ヴィートのヴァイオリン、ラファエル・クーベリックの指揮)はもしかした ら、クラシック音楽のすべてのLPの中でも、もっとも入手の難しいLPのひとつかもしれない。(事実、私は、このLPについては、いまだかつて見たこと も、聞いたこともないのだ。)

これ以降は、スタンプ(切手)ニッパーと呼ばれるレーベルデザインになる。これは、セミサークルレーベルのニッパー君の部分が、四角い縁取りで囲まれ、 ちょうど切手(スタンプ)のように見えるためである(写真5)。これにも、二つのヴァリエーションがある。ニッパー君の絵が、カラーかモノクロかの違いで ある。番号で見ると、ASD2470あたりから2750あたりまではカラー・ニッパーがオリジナルでこれ以降は、モノクロのニッパーが初版ということにな るらしい。

この、ASDシリーズの半円ニッパーとスタンプ(カラー、モノクロ両方とも)ニッパーのLPは盤自体のクオリティがとても高く、ばらつきも少なく、優秀なプレス技術といえる。

これ以降も、EMIはレーベルデザインをすこしずつ変更することになるが、今回は、割愛することにする。

以上、レーベルの変遷について、簡単にまとめてみたが、これにジャケット、盤自体の形状(フラット盤かグルーブガード付きかなど)、そして、マトリックス番号などの要因がからんで、事態はもっと複雑になってくるのだ!

(ベーレンプラッテ店主)

ステレオサウンド151号(2004年6月発行)

LP鑑定法(?) その1

金子 学

「オリジナル盤」、音楽ファンやオーディオファイルを麻薬のようにとりこにするこの言葉に魅了され続けはや30年、私も悩める(?)日々を送って来たもの だ。自分が苦労して入手した盤がオリジナル盤かどうか?これは、マニアにとっては大問題である(?)。今回は、DECCAとドイツ・グラモフォン(DG) のLPについて、レーベルやジャケットからそのレコードがどれくらい古いのか識別する方法を考えてみたい。(あくまで、これらは、私の経験と、手元にある 資料を基にまとめました。)

 

英DECCA

デッカのセンターレーベルのデザインは年代別に4つのグループに分けることができる。それぞれを、オーディアファイルはED1、ED2,ED3、ED4と 呼んでいる。また、それら中でも、ED1からED3までを「ラージ・レーベル」(またはワイド・バンド・写真1)、ED4を「スモール・レーベル」(写真 2)と大別している。

ラージ・レーベルは、読んでその字のごとく、スモール・レーベルよりもセンターレーベルの大きさが、ひとまわり大きい。また、レーベル中にデザインされて いる銀色の帯(黒色で「FULL FREQUENCY」と書かれている)の幅が13ミリメートルあり、ED4よりかなり広い。そのため、「ワイド・バン ド」とも呼ばれている。

それで済めば、話は簡単であるが、そうは問屋が卸さないのだ。実は、「ラージ・レーベル」だけでも、3種のヴァリエーションが存在する。

もっとも古いタイプが「ED1」と呼ばれるタイプだ。ラージ・レーベルの外周から約1センチのところに溝(GROOVE)があり、レーベル外周の時計でい うと10時のあたりに「ORGINAL RECORDING BY DECCA」と印刷されている。このレーベルが、デッカのステレオレコードの中でも、 もっともプレスの時期が早く、オーディオファイルたちの憧れの的である。続くED2はレーベルデザインについてはED1とほとんど同じであるが、10時の 位置が「MADE IN ENGLAND」となっている。ED3はED2におけるセンターレーベル外周部の溝のないものだ。

DECCAのステレオLPでは、ED1または2が存在するレコードは
SXL 2000番台すべて
SXL 6001~6368まで    だそうで、ED3は、
SXL 6369~6448までに存在する。それ以降の番号はED4がオリジナルである。
(ただし、SXL 6435と6447はED4がオリジナルである)

また、ジャケット裏の解説文が青い輪郭で囲まれたものを時折見かける。これは、「ブルー・ボーダー・ジャケット」と呼ばれ、DECCAの最初期だけのもので、とても珍しい。

さらに、初期のジャケット裏の右下には、ジャケットの印刷時期(月/年)が印刷されているものもある。

 

ドイツ・グラモフォン(DG)

ドイツ・グラモフォン(DG)のレーベル・ジャケット遍歴もかなり複雑だ。

DGのセンターレーベルのデザインは大別して大きく2つに分けられる。チューリップ・レーベル(写真3)とブルーライン・レーベル(写真4)だ。

チューリップ・レーベルは、センターレーベルの外周部が白と青のチューリップ(百合?)で囲まれたもの、ブルーライン・レーベルとは、チューリップの代わりに青の二重線が印刷されたものである。

チューリップ・レーベルのステレオLPはさらに2つのグループに分けられる。一番古いのは、レーベル外周のチューリップの内側の「著作権に関する注意」が ALLE HERSTELLERから始まる文章になっている。もうすこし後の盤では、そこがMADE IN GERMANYから始まっている。

ジャケットを見てみると、チューリップ・レーベルの古い盤(ALLE・・・)のほとんどは表面上部のDG独特の黄色い部分(額縁)の下部の「STEREO」の部分が赤く塗りつぶされている。これを、マニアは「赤ステレオ」と呼んでいる。

また、DECCAと同じように、1960年代の中ごろまでは、ジャケット裏の右下の部分にジャケットの印刷年月が小さく印刷されている。

もちろん、これらの2レーベルだけでも、もっと細かく見ていけば、一冊の本が書けるくらい、非常に多くのヴァリエーションがある。しかし、同じLPでもなんといっても、こんなレーベルやジャケットのわずかな違いでも音質に反映するところが実に興味深い。

それに、私たち、オーディオファイルは今日も一喜一憂するのだ。

(ベーレンプラッテ店主)

ステレオサウンド150号(2004年3月発行)

いいぞ、カルロス!

金子 学

「いま、才能のある指揮者は数多くいるが、真に「偉大」と呼べる指揮者がいなくなってしまった!」という、オールドファンの嘆きを聞いたことがある。

確かに、CDで聞かれる、最新録音のオーケストラ演奏は、精度抜群で、アイディアにあふれた「好演」が多い。しかし、改めてCD棚を見わたすと、一回聞い ただけで、そのままになってしまったものが多くなってまったことに気づく。いまや、「演奏」も新聞のように時間が経つと、人々の記憶から消え、「演奏家」 もそれと一緒に消え去り、古くはフルトヴェングラー、最近ではカラヤン、バーンスタインのように、後世まで語り継がれる巨匠たちは影を潜めてしまったのだ ろうか?

いや、一人だけいる。どこかで、指揮台に上る?という噂だけで、多くのファンをどきどきさせるカリスマ指揮者が・・・

カルロス・クライバー!1930年、往年の名指揮者、エーリッヒを父にベルリンで生まれる。第二次大戦の影響で、一時アルゼンチンに移住する。父は、息子 が音楽家を志すことに反対で、特別な音楽教育を受けさせなかった。しかし、父の意思に反し、指揮者志望だった彼は、20歳の頃から、個人教授について音楽 を学び始めた。

1952年、クライバー一家は、ヨーロッパにもどる。彼は、化学を学ぶ傍ら、音楽の勉強を続け、23歳でミュンヘン・ゲルトナープラッツ劇場の無給見習い 指揮者となり、いよいよ音楽家としてのキャリアを歩み始める。翌年には、ポツダム州立歌劇場でオペレッタを指揮する。その後、ライン・ドイツオペラ (デュッセルドルフ)、チューリッヒ歌劇場などで研鑽を積み、1966年からのシュトゥットガルト歌劇場での活躍で一躍評価を高める。1970年、ミュン ヘンのバイエルン州立歌劇場との契約を皮切りに、バイロイト音楽祭、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場などでも絶賛を博す傍ら、ウィーン・フィル などの欧米の一流楽団とのコンサート・録音を行う。現代最高のカリスマ指揮者として絶大な人気を誇り、コンサート・オペラへの出演の噂ですら、センセー ショナルなニュースとなるが、1990年代前半からは、公演回数が激減し、ここ何年かは、(開催の噂はでるが)コンサート・オペラはおろか、レコーディン グさえ行っていない。

この経歴からわかるように、非常に気難しい彼であるが、1970年代中盤から十数年の間に、わずかであるが、レコード用の録音をいくつか残してくれた。 (噂によると、ドイツ・グラモフォンを初め、レコードメーカーの倉庫には、「お蔵入り」の彼の指揮したマスターテープがかなりあるという。)そのどれも が、彼ならではの名演ぞろいである。

クライバーのデビューLPは、1975年録音のウエーバーの「魔弾の射手」であった。この演奏は、今聞いても圧倒的なエネルギーと劇的迫力を備え持った名 演なのであるが、多くの愛好家の注目を浴びにくいオペラ全曲であったので、これほどのパフォーマンスであった反面、多くの音楽ファンの心を魅了、とまでは いかなかった。しかし、次に発売された、ウィーン・フィルとの「運命」!には、音楽ファン皆がびっくりした。まずは、その登場の仕方。その頃には、既に 40代中番を迎えていた彼であるが、初の交響曲録音に、ベートーヴェンの「運命」、それも、天下のウィーン・フィルとのものなのだ!このことからも、よほ どの自信だったのがわかる。しかし、私たちの驚きは、このLPを聴いた後、もっと大きなものになる。

それまでの、この曲に対する既成概念をくつがえしていながら、奇をてらったところとか、わざとらしさがまったくない、説得力満点の名演であったからだ。

ものすごい高速でありながら、決して上滑りのない音楽、あくまでも優雅に、しなやかに歌われるメロディーに、あっという間の35分間の「事件」に初めて接 して、めまいに近い感動を覚えたのは、私だけでないだろう。また、今までの誰とも違う彼の指揮に食らいつくかのように、あるいは、初めて、このクラシック 音楽の代名詞のような曲に接した学生みたいに、ひたむきに、演奏を繰り広げた口うるさい名門、ウィーン・フィル楽団員たちの演奏振りにも、大いなる感銘を 受けたものだった。

この一枚から、彼の快進撃が始まる。ベートーヴェンの第七交響曲、シューベルトの「未完成」のような交響曲、そして、「椿姫」・「トリスタンとイゾルデ」 のようなオペラ作品に、長い間オペラハウスで研鑽を積んだ彼ならではの、劇的高揚感と目もくらむような音色美を伴った名盤が生まれるのだ。そのなかでも、 筆者はバイエルン国立歌劇場との、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」を特に愛聴している。ここで、クライバーは、オペレッタらしく、生き生きした躍動感 をオーケストラや歌手たちから引き出している。しかし、それが、単に気持ちよいとか、「軽快」などという次元をはるかに超え、ヴェルディやワーグナーなど のオペラに匹敵する、ドラマを感じさせるさまには、「お見事」と言うほかない。

話はそれるが、このLPを発売したドイツ・グラモフォン社は、ドイツに本社がある割にはオペレッタの録音が極端に少なく、私の知る限り、100年以上の同 社の歴史でも、名作「こうもり」全曲これひとつしかない。(オペレッタすべてでも、ほかには、カラヤン指揮の「メリー・ウィドー」だけのはずだ。)

これらの名盤ののち、リヒテルとのドヴォルザークのピアノ協奏曲、そして、たった二回だけ登場した、ウィーン・フィル元旦恒例の「ニューイヤー・コンサー ト」のライヴ盤以降、彼はレコーディングやコンサートから遠ざかってしまい、1999年年頭のイタリア・スペインでのコンサート以来、公衆の面前には姿を 現さなくなってしまった。実は、今年夏のザルツブルグ音楽祭に出演か、という報道もなされたのだが、それも幻になってしまった。

以前、ベートーヴェンのLPがリリースされたときの、日本盤のジャケットのタスキに、
「いいぞ、カルロス!言うことなし!」
とあったのを、これを書きながら思い出した。

この、コピーこそ、彼の演奏に捧げる賛辞としてベストであると思う。この名句(?)を思いついた誰かに嫉妬を抱くくらい、私はカルロスの演奏に首ったけなのだ!

それにしても、彼は、今どこに・・・
誰か知りませんか?

(ベーレンプラッテ店主)

ステレオサウンド149号(2003年12月発行)

悲しい風景~LPのふるさと(デッカ編) 上

金子 学

 

晩秋のある日の出来事

あまりにも衝撃的な光景に、シャッターを押す指が止まってしまった。ゾフィーエン・ザール、クラシック好きのオーディオファイルにはあまりにも有名なこの建物。これが、正面の一部を残して跡形もなく、なくなっているのを見てしまったからだ。

ウィーン中央(ミッテ)駅から徒歩約五分のところに、この録音再生文化の聖地はある。今まで、何回となく訪れたウィーンであるが、ここの前を車で通り過ぎたことはあっても、訪れたのはこの晩秋の週末が初めてであった。

 

その歴史

ゾフィーエン・ザールの歴史は結構古い。それも、古くからある録音スタジオやホールがそうであるように、当初は録音以外の目的で建てられたのであった。

病などの理由により、ボヘミアからやってきた事業家フランツ・モラヴィッツが、これまで営んできた染物工場をたたみ、同じ場所に、ロシア式蒸し風呂に改装して、新たなスタートを切ったのは1838年のことであった。これより、彼の成功の歴史が始まることとなる。

ある日、ひとりの病に苦しむ女性がここを訪れる。彼女こそ、オーストリア帝国皇帝となるフランツ・ヨーゼフの母、ゾフィー大公妃に仕えていた女官なのである。

幸運にも、この女性、モラヴィッツの浴場のおかげで(かはわからないが)すっかり健康を取り戻すことができた。それが、口コミでウィーン中に広まり、一気 にこの浴場がブレイクしてしまう。これ以降、ここが、「ゾフィーエン浴場」(ゾフィーエン・バート)呼ばれるようになったわけである。

さらに野心家のモラヴィッツは、ウィーンの市民憩いの場所となったこの浴場を、後年ウィーン国立歌劇場の設計チームの一員となるファン・デア・ニルとシッ カーズ・フォン・シッカーズブルクに改装を依頼する。この工事が行われたのが、1848年。この建物こそ、デッカ・チームの黄金時代の本拠地のひとつ「ゾ フィーエン・ザール」のルーツである。

当時の建物は、夏は「バート」(温泉)の名前どおり温水プールとして使用され、冬になるとお湯を抜かれ、水槽の上にふたがかぶせられ、舞踏会場として使わ れた。かの、シュトラウス・ファミリーもここの舞踏会のためにワルツ等の作品を残すほどの盛況だったという。そして、その後も何回も改装工事が行われた。

第二次大戦中は、ナチスのもと、強制収用所に送られるユダヤ人の留置所としてもっぱら使用されたらしい。戦後は、1948年に今一度改装工事が行われた。その数年後の1950年代後半、いよいよデッカの録音スタジオに生まれ変わることになる。

 

そのサウンドの秘密

ここに、一枚のDVDがある。ショルティ指揮の「ラインの黄金」録音セッションのドキュメンタリーだ。ご興味のある方は、ぜひご覧になってほしい。これを見ると、偶然の産物とはいえ、ゾフィーエン・ザールがいかに録音スタジオとして理想的な音空間だったかがわかる。

まず、天井が非常に高く、空間がゆったりとしていること。これは、音のよいホールの必要条件である。これが満たされないと、音響に奥行きがなくなり、オーケストラの最強奏では、響きがやせてしまって楽しめなくなる。

次に窓が多いこと。なにせ、古い窓である。現在の物のように、密閉度がよくない。そのため、内部の音が適度に外に漏れる。ということは、外部騒音も入って くるので、これ自体はデメリットであるが、考えようによっては、音響的な空間の広さが無限大となり、さらに響きにゆとりが出てくる。(もちろんこれには限 度があるが・・・)かの、楽友協会ホールも同じく天窓がとても多い。

そして、床の構造である。プールの水槽の上に張られた床の下は空洞となっている。床下の大きな空洞こそが、あのDECCAのLPの独特の低音の秘密となっていることは明らかである。

 

理想的スタジオ

さらに、録音用スタジオとしても、理想的な使い勝手の建物であることも、このダンスホールから生まれた名盤の数々のサポートをしていることがわかる。

普通のコンサート・ホールの数倍はあるかと思われる広い床面積。これにより、編成がどんなに大きくとも、録音にもっとも適したオーケストラや合唱団の配置 が可能になる。(写真は、オーケストラ、合唱団の編成が古今のクラシック音楽中最大といわれる、マーラーの「一千人の交響曲の録音風景(ジャケット写 真)」である。これからも、このホールの巨大さが見てとれる。)

また、その床面積の大きさ故、どんな、複雑なマイクセッティングも可能となる。カルーショウはじめ、録音の天才たちが、その天分を心置きなく発揮できたことも、DECCAサウンドがあれだけ、わたしたちの心を揺さぶり続けている原因かもしれない。

 

悲劇の到来

その日は突然やってきた。バカンス真っ最中の2001年8月16日の昼下がり、建物の中央正面の一部をのぞいて、かつての名盤のふるさとはほぼ全焼してしまった。このニュースは、日本のメディアでも取り上げられたので、ご存知の方もいらっしゃると思う。

もうあれから二年。かの地を訪れたわたしの心は暗くなった。火事以来、ほとんど、建物はほったらかしにされ、わずかに残った建物の一部は廃墟と化し、瓦礫 の山には雑草さえ生えていた。ウィーン・フィルをはじめ、ここで録音された数多くのLPに何度も勇気づけられ、あるときは、癒されたわたしの心は複雑だっ た。

写真を撮ることもできないわたしは、瓦礫の中から、レンガのかけらを、ひとつふたつポケットに入れ、この悲しい風景を後にした。(続く)

参考文献:レコード芸術2003年7~9月号(音楽之友社)

ステレオサウンド148号(2003年9月発行)

悲しい一枚~デュ プレのことなど

金子 学

大好きな演奏家の一枚でありながら、なかなか針を下ろせないLPがある。
たとえば、演奏家はお気に入りであるが、どうしても曲が好きになれない、とか、人には言えない悲しい思い出がある、とかの理由で、ずっと長い間、聞いたことのない一枚のLPのことである。

 

薄命の天才 デュプレ

1960年代、イギリスでは、二人(ふたつ)の天才音楽家が世界を駆け抜けた。ザ・ビートルズとジャクリーヌ デュ プレである。

ジャクリーヌ デ゙ュ プレ・・・1945年、イギリスのオックスフォード生まれ、5歳からチェロをはじめ、カザルスらに師事。1961年ロンドン デ ビューを飾り、一躍脚光を浴びる。1965年にはBBC交響楽団のアメリカへの演奏旅行に同行し、エルガーのチェロ協奏曲を演奏して、一大センセーション を巻き起こす。67年には指揮者・ピアニストである、ダニエル・バレンボイムと結婚するが、73年には多発性硬化症という難病のため演奏活動ができなくな り、第一線を去る。1987年没。

バイオグラフィからもわかるように、彼女の42年の人生の中で、実際演奏家として活躍できたのは、たったの13年間。さらに悲しいことには、28才からは、病気のため、残りの人生のほとんどを、闘病生活に捧げているのだ。

幸いなことに、彼女はチェロための作品を数多く録音してくれた、それも、たった十年少々の期間にである。そのことだけでも、我々音楽ファンは、彼女と神様 に感謝しなければいけない。(残念なことに、バッハの「無伴奏」は無い。しかし、それも、今となっては、ないものねだりになってしまった・・・。)

さて、そんな彼女の遺産のどれがベストか?

答えは簡単。「すべてが、ベスト。ただし、一枚を除いて」。

まずは、エルガーの協奏曲、彼女自身はこの演奏が気に入らず、初めて、録音を試聴したときには、落胆のあまり泣き出したというが、この曲を有名にしたの は、ほかならぬこの演奏である。実際いつ聞いても、叙情的な冒頭から、悲痛な終結部まで、バルビローリの指揮とともに強い集中力と深いペーソスで聴くもの を虜にしてしまう。

ハイドンの協奏曲は、また別の世界だ。チェロ指板を駆け抜けるような指さばきの見えるような、きらめきに満ち溢れた音楽は、いかに表現したら良いのであろうか?誰か教えてほしい!

独奏曲では、夫君バレンボイムとのベートーヴェンのソナタ全曲がすばらしい。実のところは、彼女の以前の婚約者である、ビショップとの演奏(第3番と第5 番のみ)の方がさらに若さに満ち溢れた表現で筆者のお気に入りなのであるが、落ち着いた雰囲気の中にパッションを感じさせるこちらも素敵だ。ビショップと は婚約破棄のために、全曲録音は頓挫してしまったが、こんなゴシップめいた話題も彼女の性格の一面を垣間見せてくれて興味深い。

 

悲しい「ピーターと狼」

記録によれば、彼女の最後のレコーディングは、バレンボイム、そして親友の一人・ズッカーマンとの、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲である。1972年 の9月の記録である。すでに、この頃、彼女の病状はかなり悪化していたらしく、翌年の1月25日のコンサートが、彼女の最後のコンサートになってしまっ た。(実は、この年の4月には東京でのコンサートも予定されていたのに、歩くことさえも、彼女にはかなりの集中力が必要だったという。)

この数年後に彼女は再びマイクの前に姿を現した。子供のための音楽劇「ピーターと狼」のナレーター役として、である。1979年、34才の時のことである。彼女は言った、

「私の脚のあいだにいつもの楽器はなく、その代わりに言葉がありました!」

このLPを聞くと私は悲しくなってしまう。すでに、彼女は言葉をはっきりと発音することが困難になり始め、聞き取ってもらうのに誇張が必要になってしまっていたのだ。悲しいことに、その誇張が、この語りを子供向きの音楽劇の楽しさをさらに際立たせることになっている。

いまでも、私のレコード棚の彼女のレコードを集めたコーナーの中にある、この無邪気なジャケットから、LPが取り出されることは、めったにない。

私の大好きな女流音楽家の話をするつもりが、湿っぽいことになってしまった。
 

アルゲリッチのことなど

閑話休題!

もうひとり、私には忘れられない女流演奏家がいる。マルタ アルゲリッチのことだ。

1941年生まれ(デユ プレよりも年上!)の彼女は、もちろん現在でも世界の楽壇で活躍を続けているが、私にとっての彼女のピークは(少なくともレコー ディングでは)、1960年~70年代である。たとえば、デビュー直後のアバドとの共演である、ラヴェルとプロコフィエフなどの協奏曲は、いつ聴いても、 「スリリング」という言葉がこれほどぴったりな演奏はないと思わせるほど、二人の若き才気が火花を散らす名演だ。しかも、彼女の強靭なタッチの音を見事に 捉えたDGの録音技術の見事さも特筆ものだ。
デュプレの話題にあまりにも多くのスペースをさいたため、ほかの演奏家についてお話しすることができなくなったのが残念だ。ハスキル、ポップ、ローテンベルガーなど、もっといろいろと書き連ねたいのはやまやまなのだけれども・・・。

それは、後の機会に譲ろう。

ステレオサウンド147号(2003年6月発行)

真夏の第九 ~フルトヴェングラーのライヴ録音の魅力

金子 学

 

バイロイトにて

2001年8月10日午後7時、私はバイロイト祝祭劇場の客席にいた。今夜は、何回かここで体験し、感激したワーグナーの楽劇の為でなく、ベートーヴェンの第九交響曲を聴くためだ。

バイロイト、ミュンヘンから列車を乗り継ぐこと約三時間で到着する、人口10万人ほどの小さな街は、七月下旬からの約一ヶ月間だけ、他のドイツの小都市とは、まったく別の顔を見せることになる。

「ニーベルングの指輪」「タンホイザー」等の傑作で歴史に名を残すドイツ屈指のオペラ作曲家、リヒャルト・ワーグナーが彼自身のオペラの上演のためだけに 建てた、「バイロイト祝祭劇場」での音楽祭・・・「バイロイト・フェスティバル」のために、世界中から「ワグネリアン」(ワーグナーの熱狂的信仰者)が集 い、一流のワーグナー歌手・指揮者・オーケストラ楽員(この音楽祭のために組織された“祝祭管弦楽団”(ほとんどのメンバーがドイツの一流オーケストラ・ 歌劇場の楽団員である))たちが、普段のオペラ公演に比べて、非常に多いリハーサルの結果である、優れたオペラ上演を繰り広げるのである。そのため、入場 券の入手は困難を極め、一般応募では、毎年オーダーを出し続けても、チケットの当選の確率が7年に一回くらいであるという。
音楽祭の特徴は、チケット入手の困難さだけではない。このメイン会場である、祝祭劇場にも大きな特色がある。

この会場のオーケストラピットには蓋がある。そのため、ピットからのオーケストラの音は、ピット先端の数十センチのスリットからのみ、観客の耳に到達する ことになる。そのため、オーケストラが大編成であっても、歌手たちは決して声を張り上げなくとも、らくらくと歌える。また、そのため、少々明瞭度には欠け るが、ソフトで聞き手を包み込むようなサウンドは、一度味わったたら病み付きになってしまう。視覚的にも、観客は指揮者やオーケストラが見えないので、ス テージ上の演技にのみ集中できるのだ。

もちろん、例年は、ここでは、ワーグナーの歌劇・楽劇しか上演されない。しかし、たった一曲だけ、(ごくまれにではあるが)演奏される曲がある。ベートーヴェンの第九交響曲である。

ワーグナーは、生前、尊敬してやまないベートーヴェンの作品を数多く取り上げた。そのころ、まだ、“よくわからない音楽”、ととらえられていた、「第九」 の真価を人々に知らしめ、名曲としての地位を不動のものにしたのは彼の力によるところが大きいとされている。実際、彼は、ここバイロイトにおいても 1872年5月22日に旧歌劇場でこの曲を指揮したのをはじめ、1876年の祝祭劇場のこけら落としでもとりあげている。以下、バイロイト音楽祭で「第 九」演奏記録を見てみると、そうそうたる顔ぶれの指揮者が名を連ねている。

1933年リヒャルト・シュトラウス
1951年ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
1953年パウル・ヒンデミット
1954年再びフルトヴェングラー
(彼は、この年11月に死去)
1963年カール・ベーム
2001年クリスティアン・ティーレマン

 

フルトヴェングラーの第九

もちろん、これらの中で、最も有名な「第九」といえば、1951年のフルトヴェングラーの演奏であろう。1951年すなわち、バイロイト音楽祭75周年、 そして、第二次大戦後中断されていた、この音楽祭の再開記念演奏会の記録であるこのレコードは、その歴史的価値、演奏の崇高さから20世紀の遺産といって よい。

実は、フルトヴェングラーは、この「第九」だけでなく、オペラの演奏を音楽祭本部から依頼されていたらしいのであるが、スケジュールの関係上、第九だけだったという。(オペラ公演は、クナッパーツブッシュとカラヤンが指揮した)

音楽ファンの方々には、この演奏で第九のすばらしさを知った、という人も多いかと思う。ここで、この演奏の魅力について語り始めると、きりがないのでやめ るが、第四楽章の我を忘れてのひたむきな演奏には、平和の中で音楽を享受できる喜びがあふれているといってよい。もちろん、ライヴ録音(7月29日のドレ スリハーサルの記録というのが正しいらしい)ゆえの、演奏の傷・・・聴衆のノイズや演奏ミス・・・も多々見受けられるが、それさえも演奏の魅力となって 我々の魂を揺さぶる。これこそ、ライヴ録音の傑作といってよい。
 

フルトヴェングラーの「運命」

フルトヴェングラーには、もうひとつ、絶対に忘れてはいけないライヴ録音がある。1947年5月にベルリンで録音された、「運命」である。

ヒトラー率いるナチスドイツでは、第二次大戦中、多くの芸術家たちが、ドイツから亡命し、安住の地を求めた。

しかし、誰よりもドイツ音楽・ドイツの聴衆を愛した彼(彼自身、「演奏旅行には、ベルリンの聴衆を一緒に連れて行きたい」とまで言ったという)は、ドイツ に留まり、演奏活動を行った。そのため、終戦後は、連合軍にナチの広告塔との疑いをかけられた。このため、戦後の2年間は公開の場で、彼は演奏活動を禁止 されてしまった。それが解かれてからの最初の演奏会のライヴ録音がこれである。(正確には、当時のベルリンフィルのホームグラウンド「ティタニァ・パラス ト」・・・映画館を改修した臨時のホール、ではではなく、放送局のスタジオに聴衆を入れての、いわゆる「スタジオ・ライヴ」である)

その演奏であるが、まさに“主観的”という言葉がぴったりで、水を得た魚のように、無我夢中の演奏である。彼の芸風から言ってもぴったりの「運命」交響曲 であるが、これほど、ひたむきな演奏は他にはない。もちろん、「運命」交響曲は、200年以上前に作曲された、古典音楽の傑作である。しかし、この演奏の ように、今、自分が、この曲を作曲したかのように演奏するさまを、私はほかには聴いたことがない。

もちろん、フルトヴェングラーのライヴ録音は、ほとんど全部CD化されている。しかし、残念なことに、演奏ミスやノイズなどを除去するために、何らかの加 工が施されているものが多い。それで意義のあることかもしれない。しかし、ライヴの真の意味、「生きた」演奏を味わうためには、採りたての演奏をそのま ま、溝にした音盤で聴くことが最高、と思うのは私だけであろうか?

ステレオサウンド146号(2003年3月発行)

カラヤン讃

(ベートーヴェンの交響曲演奏を中心に)

日本においては、高齢の巨匠が、非常に熱烈に歓迎され・尊敬される傾向が強いようだ。

最近では、朝比奈 隆やギュンター・ヴァントのライブでのもの凄いフィーバーぶりや、カール・ベームの日本における実況録音のCDでも聞ける、聴衆の、異 常ともいえる熱狂ぶりは、記憶に新しい。それも、共通してベートーヴェンやブルックナーといったドイツ・オーストリアの大作曲家の作品を取り上げる事が多 いようだ。しかし、そんな彼らの中にあって、ひといちばい多かった絶賛とともに、批判も(特にわが国では、音楽以外での私生活においてでも)それと同じく らい多かった巨匠がいた。ヘルベルト・フォン・カラヤンである。

 

カラヤンのベートーヴェン演奏の変遷

彼は、生涯ベートーヴェンの交響曲にこだわり続け、録音・録画にと数種類の全集を残した。それだけではない、「第五」・「第七」などは、全集とは別に、単 独のレコーディング・録画も行っている。それらを合わせると、一人の指揮者のベートーヴェン録音としては、他を圧倒する数になる。同一曲の再録音の多い、 彼のディスコグラフィの中でも、特別な位置を占めている録音ということになる。

いま、われわれがLPで入手できる、カラヤンのベートーヴェンの全集は4種類ある。初めのひとつのみ、フィルハーモニア管弦楽団とのセッションで、あとの3つは終身音楽監督をつとめた、ベルリンフィルとのものである。

1950年代のはじめにEMIの名プロデューサー、W.レッゲとの共同作業で生まれた第一回目の全集は、彼のベートーヴェン解釈の原点といってもよいだろ う。すなわち、流線型を描くような、なめらかな旋律の歌いまわし、スピード感たっぷりのテンポが、後の全集よりもストレートに伝わってくる。当時のフィル ハーモニア管弦楽団も、名手ぞろいで、オーケストラの技術的な観点からいっても、今聴いてみても決して古めかしい印象は受けない。

第二回目の全集は、それから約十年後の1960年前半における音楽的遺産である。

ベルリンフィルの監督就任後、数年が経って、ベルリンフィルという、世界最高のオーケストラと完全に一体となった演奏は、聴く者をぐいぐいと引き込んで、 飽きさせることはない。この全集で、両者が創り出すベートーヴェンは、世界的なステータスを築くことになる。当時の、ベルリンフィルの録音のホームグラウ ンド(演奏会では、まだ、映画館が使われていた)、ベルリン・イエス・キリスト教会のアコースティックの良さも相俟って、ずっと長い間(そして、今で も)、数多いベートーヴェン演奏の中でも、リファレンス的な位置づけを保ってきている。オーディオ的にも、この全集の意義は大きく、重厚なベルリンフィル のサウンドを見事にとらえた録音はすばらしく、これを完璧に再生するのはとてもむずかしい。

1963年、念願の新フィルハーモニーホールが完成した。しかしながら、カラヤン、そしてドイツ・グラモフォンのスタッフは、録音会場をイエス・キリスト教会から、ここへはすぐに移さなかった。よほど、この古びた教会に愛着があったのだろう。

何回かの試行錯誤の後やっと、完成から十年以上たってから、新ホールで録音を始めた。レパートリーの中には、もちろんベートーヴェンも含まれており、これ が、第三回目の録音である。カラヤンをして「いまや、私とベルリンフィルとの関係は最高である」と、言わしめた演奏は、まさに最高という言葉がぴったりで ある。当時、この全集を初めて聴いた筆者は、あまりにも完璧な演奏に、ある種の「退屈」さ、さえ覚えた記憶がある。磨きぬかれた音色に惚れ惚れとしたり、 ものすごく難しいパッセージでも、何事もなかったかのように、さらりと演奏するのを聴いて、あっけにとられたのが、つい昨日のことのように思い出される。 また、それまで慣れ親しんだ、イエス・キリスト教会と大幅に異なるフィルハーモニーホールの音響に戸惑いと、新しい可能性を感じたのも、今となっては、懐 かしい思い出だ。

1980年代に入るとオーディオは、革新的な技術革新を成し遂げることになる。すなわち、デジタル録音、そしてCDの時代に突入するのだ。常に、“何か新 しいもの”を求め続けた彼は最後の力をふりしぼり、憑かれたように、いままでのレパートリーをデジタルで再録音するようになる。それらの中に、ベートー ヴェンの交響曲全集があったのは、言うまでもない。

そして、彼は、最後のベートーヴェンをライブ録音で残してくれた。(「第九」を除くこれらが、後のDVDのサウンドトラックとなった。)ここに記録されて いるベートーヴェンは、前の3つとは、異なる趣を呈している。具体的には、以前よりも速めのテンポで、さらりとした印象の演奏である。しかし、何回か繰り 返して聴いてみると、その第一印象は、影をひそめ、大きな感動へと変わってくる。その演奏の陰にひそんでいる、彼のベートーヴェンへの執念が伝わってくる のだ。あえて、ドラマティックな表現を避け、素朴ささえ感じさせる彼の演奏の根底にあったものは、いったいなんだったろうか?

わたしは、それは、ベートーヴェンをはじめとする作曲家や彼らの残した作品に対する愛情だったのではないかと思う。

晩年、音楽とはあまり関係ないことが原因で、ベルリンフィルとの関係が悪くなってきた彼は、かつての友、ウィーンフィルとの仕事量を急激に増やすようにな る。やはり、同郷の人間とは一番分かり合える、ということなのであろうか? そのころの、チャイコフスキーやモーツァルトには、いままでベルリンフィルと の演奏には聴けなかった、不思議な、そして、あまりにも悲しい音が見え隠れする。

 

最後の日々

1989年4月下旬、彼はウィーンフィルとのコンサートとレコーディングを行う。曲は、ブルックナーの第七交響曲であった。その翌日、ベルリンフィルに辞 表をたたきつけ、今後は、ウィーンフィルとのみ演奏活動をすると表明した。ウィーンの市民は大喜びし、国立歌劇場の支配人は、「カラヤンが帰ってくるのな ら、ウィーンの空港からオペラ座まで赤絨緞を敷いて歓迎したい」、とまで言ったそうだ。しかし、その約3ヵ月後、彼は心臓発作であっけなくこの世を去って しまう。彼には、生まれ住んだオーストリアで、実りある晩年を送るには、残された時間があまりにも短かった。(信じられない話だが、彼は、ベルリンには自 宅を持たずに、ホテル暮らしだった。)結局、このブルックナーが彼の最後の仕事となってしまった。

ちなみに、この4月5日は、彼の95回目の誕生日である。

ステレオサウンド145号(2002年12月発行)

最高の贅沢

大晦日はシュターツ・オーパー(国立歌劇場)で「こうもり」を楽しみ、それがはねたら、年忘れパーティーで深夜まで大騒ぎ、その後ちょっと眠り、元旦の 11時からはムジ―クフェライン(楽友協会)で「ニューイヤー コンサート」これが、ウイーンの(いや世界の)音楽フリーク達の、究極の年越しといわれて いるが・・・

 

大晦日の楽しみ

ちょっと古い資料で申し訳ないが、私の手元に「ウィーン国立歌劇場の上演記録 1945-1980」がある。これを見ていると、いわゆる<オペレッタ> は、ごくわずかの例外を除いて、「こうもり」しか上演されていない。(つい数年前も「メリー・ウィドー」が舞台にかかったが、もうお蔵入りになった)
特に、大晦日の公演はウィーン名物で、第二幕の舞踏会のシーンでは、(あらすじとは関係なく)大物ゲスト歌手が飛び入り参加することもあり、にぎやかに年越しを、と言うウィーン市民と観光客で劇場内はいつにも増して華やかになる。

これを、録音で見事に再現したのが<ガラ・パフォーマンスつき>とうたわれた、1960年録音のWPHとカラヤンの演奏である。ガラには、当時の大スター たち、テバルディ、モナコ、ニルソンらが出演し自慢ののどを競い合っている。もちろん、オペラ自体の演奏・録音も当時の国立歌劇場監督カラヤンとデッカの 共同作業であるので悪いはずがない。ジャケットの豪華さも目を見張るもので、今のCDのプラスチックケースの比ではない。(実のところ、このガラのすべて が、カラヤンの指揮というわけではない。歌手たちとのスケジュールの関係と思うが、完全主義を貫いた彼にしては珍しいケースだ。)

古きよきウィーン情緒を、ということであれば、やはり、クラウス盤だろう、ザッハー・トルテ(元祖は国立歌劇場裏の高級ホテル「ザッハー」)みたいに、甘ったるいが、粋な「こうもり」だ。(ここでは、ガラはなくワルツ「春の声」が演奏されている。)

もうひとつ絶対に忘れてはいけない「こうもり」がある。クライバーとバイエルン国立歌劇場のそれである。コロ、ポップ、プライらを集めたキャストもすごい が、なんと言っても、クライバーのすごいテンションとユーモアに満ち溢れた指揮ぶりには何度聴いても、どきどきしてしまう。この演奏にも、ガラはないが、 その代わりにポルカ・シュネル(アップテンポのポルカ)「雷鳴と電光」が収められている。
その凄さといったら・・・・・。

 

「ニューイヤー コンサート」その歴史

資料によれば、ヨハン・シュトラウス自身がウィーン楽友協会(以下MV)でウィーンフィル(以下WPH)と初めて共演したのは、1873年4月23日の 「オペラ舞踏会」で、そのとき、彼は、ヴァイオリン片手に「ウィーンかたぎ」を指揮したらしい。これが、ニューイヤー・コンサートのルーツのようだ。その 後、ワインガルトナーが「青きドナウ」をWPHの定期演奏会で取り上げたり、「シュトラウス・コンサート」と題した演奏会を指揮したりしたが、今の <ニューイヤー・コンサート>の形を作り上げたのは当時のウィーン国立歌劇劇場の監督であったクレメンス・クラウスである。

1939年の大晦日、彼は初めて<ニューイヤー・コンサート>という名前を掲げたコンサートを開き、1941年にはその開催日が元旦となった。この日こそ、記念すべき<ニューイヤー・コンサート>誕生の日である。
彼は、戦犯として公職を追放された1946と1947年以外は(この二年間はクリップスがタクトを取った)、世を去る1954年まで毎年元旦はMVの指揮台に立った。

彼の死によって開催が危ぶまれた、年に一度のウィーンっ子達のお楽しみの窮地を救ったのが、当時のWPHのコンサートマスターであったウィリー・ボスコフ スキーである。彼は、高齢を理由に1979年に引退するまでの間、指揮台に立っただけではなく、演奏スタイルをシュトラウスの時代に戻した。つまり、自ら ヴァイオリンを片手に、あるときは、楽団員と一緒に演奏し、またあるときは弓をタクト代わりに指揮したのだ。

1960年代後半より、テレビにより、世界中の人々がこの華やいだコンサートを楽しめるようになる。手元の資料によると、はじめてわが国にこのコンサートの映像が送られたのは1972年とのことでる。

ボスコフスキー引退後、<ニューイヤー・コンサート>は新しい歴史を刻むことになる。コンサートの国際化が始まるのだ。世界各地の名指揮者が選ばれ、TVによって、コンサートの楽しさを知った世界中の音楽ファンたちが、チケットの争奪戦を始めた。

参考までに1980年からの指揮者を並べてみると次のようになる。

アバド、カラヤン、クライバー、メータ、ムーティ、マゼール、アーノンクール、小澤(2002)、
来年(2003)は再びアーノンクールが指揮台に立つとのこと。

 

LPで楽しむウィンナ・ワルツ

残念ながら、クラウスには<ニューイヤー>の公式なライブ録音は存在しない。3枚分のLP録音が残されているのみだ。それらをターンテーブルにのせると、 古きよき時代のウィーンが香ってくるから不思議だ。弦楽器の濃厚で艶のある音色、チャーミングな管楽器、そして、独特な三拍子の刻み(これは、残念ながら 私の貧弱なボキャブラリーでは説明不可能)。これらは、ほかのオーケストラでは絶対に味わうことができない。録音も、モノラルであることを除けば、音楽の 生々しさという意味では最高である。(けれど、これらをCDで聞くと、よくも悪くもある種のアクがとられたような感を持つのは、私だけだろうか?)

ボスコフスキーは10種以上のワルツのLPを残してしてくれた。彼は、指揮者というよりは、<バンドマスター>的なポジションで同朋たちと音楽する。個性 という点では、他の名指揮者たちに一歩譲るが、聴きやすく何度聞いても飽きが来ないという点では最高! また、うれしいことに、1975年・1979年の 元旦のライブ゙録音が残されている。当時は、まだ観客もウィーン人がほとんどだったようで、ステージと観客の暖かい交流も、映像が無くとも、見えてくるよ うだ。(なお、1979年のライブは、記念すべきDECCAのデジタル初録音である。)

1980年以降の<ニューイヤー>はすべてライブ録音で(それも、ほとんどは映像も伴って)入手できる。これらの中では、(個人的な好みで申し訳ないが)1987年のカラヤン、1992年のクライバーの2枚が私の宝である。

幸運にも、私は両年とも実演に接することができた。前者の、もうほとんど体が言うことが利かなくなった帝王カラヤンの微妙なタクトの動きを凝視し、それに 答えるWPHの楽員の真剣なまなざしと、そこから生まれ出る、ホールの空気にやわらかく染み込んでいくかのような幸せなワルツ。かたや後者の(実は、良く 聴くと、コンセプトは驚くほど近いのであるが)、これ以上過激にやったらグロテスク、といわれるほどのテンション、演奏技術の限界に挑むかのようなものす ごいスピード! どちらも、私の愛聴盤であるが、聴き飽きるときが来るのが怖くて、めったに聴かなくなった。(けれど、手元においておかないと、不安でな らない。)

ニューイヤーに登場しなくとも、WPHとワルツの名盤を残した指揮者は多い。

たとえば、ハンス・クナッパーツブッシュの豪快極まりない指揮や、カール・ベーム博士の文字どおり<博士>のような生真面目な指揮ぶりにオケが独特の<艶>という調味料を加えたかのような、つい、微笑みがもれてくるようなアルバムなど、きりがない。

いまや、デジタル技術が進歩して、日本でも鏡開き頃には、元旦のライブのCDが入手できるようになった。けれど、十年前みたいに、元旦TVで味わった感動 を、わがシステムで・・・、と想像たくましくしながら何か月か首をキリンのように長くして待っていた頃を懐かしむのは私だけだろうか?

ステレオサウンド144号(2002年9月発行)

LPのふるさと(DG編)

この5月、ベルリン滞在中に思い立って、ダーレム地区にある「ベルリン・イエス・キリスト教会」を訪れた。

ベルリンには何回も足を運びながらも立ち寄ることもせず、永年の念願であった場所である。ドイツ・グラモフォン(DG)の名盤を生んだ「聖地」として、私にとって頭の奥深く刻まれて既に四半世紀が経った。

さらにさかのぼること四半世紀、1945年5月8日、敗戦を迎えたドイツは音楽に対する思い熱く、翌46年にはすでにDGはレコードの生産を再開した。し かし、戦後の混乱中で、DGのスタッフたちは多くの問題に直面することになる。まず、原材料や燃料の不足、そして、最も大きな課題は「録音スタジオが無 い!」ということであった。

当時より、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(BPH)のかつてのコンサートやレコーディングのホームグラウンドであった、旧フィルハーモニーホール が、44年冬の空襲であとかたも無く燃え尽きてしまったからからだ。その代用として、コンサートには映画館が使われたが、録音には全く不向きであった。困 り果てた当時のDG専属のレコーディングエンジニアであったハインリヒ・カイルホルツは、瓦礫の山と化したベルリン市内を探しまくり、やっと見つけたの が、ダーレム地区にある「イエス・キリスト教会」だったのだ。その瞬間より、DGのBPHとのLPの黄金時代の幕が開くこととなる。

1951年、若くしてこの世を去った天才指揮者フリッチャイとBPHとのメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」を第一号としていよいよLPの生産がはじまっ た。その後、フリッチャイ、ベーム、そしてヨッフムなどの名指揮者達がここで数多くの録音をのこしてゆくが、やはり、BPHのレコーディングで絶対に忘れ ていけないのがフルトヴェングラー、そしてフォン・カラヤンだろう。

フルトヴェングラーとBPHとの顔合わせのLP・CDは数多く出回っているが、そのほとんどは、1930年代以前のSP録音の復刻、または、彼の死後出さ れた悪条件の中で収録されたライブ録音で、オーディオファイルには物足りない。ここ、イエス・キリスト教会でのセッション・・・それもわずかである が・・・が、彼がOKを出した、真のフルトヴェングラー・BPHのサウンドといっても過言ではない。

残されたものは、シューベルト、シューマン、そしてフルトヴェングラー自作の交響曲などであるが、これらは、この曲のベストベストパフォーマンスであると ともに人類の永遠の遺産、と言っても良いだろう。例えば、シューマンの第四交響曲冒頭のずしんと来る分厚い響き、そして、序奏から第一楽章主部に突入する さまは、何度耳にしても手に汗握る瞬間だ。また、モノラルとは言え、録音も素晴らしく、状態の良いLPと調整の行き届いたアナログプレーヤーで体験するこ れらの名盤は、彼の息づかいまで感じられ(本当に聞こえる)、一度聞いたら病み付きになってしまう。

この教会を見つけたカイルホルツは、コンサートリアリズムの信仰者で、周波数レンジを欲張るよりも中音域のエネルギー感、つまり音の「実在感」大切にして いた。それが今のDGサウンドのルーツであるが、そのポリシーと最もマッチしたのが、数え切れないフォン・カラヤンとBPHの録音と言える。

SP時代にごく僅かの録音をDGに残した彼は、その後しばらく、DGとは距離をおいていた。しかし、BPH終身音楽監督就任5年目の1959年に古巣にカ ムバックすることとなる。その第一号がリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」だ。それを皮切りに、ベートーヴェン、ブラームスの全集を初めとする主要 な交響曲、協奏曲、管弦楽名曲集などの名盤をそれこそ文字通り「量産」してゆくこととなる。

録音技術面でも、カイルホルツ生み出したDGサウンドの基礎を、プロデューサーのオットー・ゲルデス、エンジニアのギュンターへルマンスの黄金コンビが発展させてゆくこととなるのだ。

例えば、60年代に録音されたブラームスとベーとヴェンの交響曲でのあの厚みとこくのある低音域から中音域はDGならではのものである。それも、CDより もLPのほうが濃厚に感じられる。(なお、これらカラヤンのLPのほとんどは、大ベストセラーとなったため、今でも市場に安価で多量に出回っている。手軽 に入手可能であるので、ぜひ、オーディオファイルの方々は、その再生にチャレンジして欲しい。)私自身、彼らのベストサウンドLPとしては、1973年の リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトストラはかく語りき」を挙げたい。押し流されるような音の洪水に垣間見せる管楽器やソロ・ヴァイオリンの微妙な表情 の変化がこたえられない。

一方、ドイツ・エレクトローラ(EMI)も60年代後半より、同じイエス・キリスト教会で、同コンビのセッションを始める。モーツアルト、チャイコフスキーのシンフォニーベートーヴェン、ブラームスのミサ曲などだ。

ここでのDGとEMI両レーベルのサウンドポリシーの比較もとても楽しい。

DGに比べ、EMIは音場感にウエイトを置いているようで、ディティールよりも、聴く者を包み込むような音場の拡がりを大切にしたトーン・キャラクターは DGとはまた違った快感だ。もちろん、CDでもこれは比較可能であるが、カッティングやプレスのノウハウ、そして原材料までトータルのキャラクターを比較 しての楽しさとなると、LPの方に軍配が上がる。

1961年、ベルリン市民念願の新フィルハーモニーホールが完成する。しかし、その後もしばらくイエス・キリスト教会はBPHの録音に使われ、いまでもし ばしばBPHをはじめ他のオーケストラの録音にも使用されている。それだけ、この教会のアコースティックは録音向けなのだろう。我々は、カイルホルツに感 謝しなければいけない。

イエス・キリスト教会を訪れたのは、ゴールデン・ウイークも終わって、日本からの音楽ファンも市内にほとんど見かけなくなってしまった小雨の日曜だった。 そのベルリンで、顔も姿も知らぬまま文通していた心の通い合った友にやっとめぐり合えたかのように温かななつかしさに包まれたのだった。